らな生活を営んでいるのだと近所ではもっぱら噂された。そのお津賀のところへ稀《まれ》にたずねてくる五十くらいの男があって、それは自分の叔父さんで、一年に一度ずつ商売用で上州から出て来るのだと彼女は云っているが、どうも上州者ではないらしく、又ほんとうの叔父さんではないらしい。それも例の旦那の一人であろうと長屋じゅうの者には認められていた。
四、五日前の夕方に、その叔父という人が久し振りにたずねて来ると、あいにくお津賀はいなかった。かれは独身者で、外へ出るときに表の戸にしっかり[#「しっかり」に傍点]と錠《じょう》をおろしてゆくので、叔父ははいることが出来なかった。うす暗い門口《かどぐち》にぼんやりと立っている男の姿を気の毒そうに見て、井戸端から声をかけたのがこの女房であった。黙っていればよかったが、お津賀さんの帰るまで隣りの家へはいって待っていろと彼女は教えてやった。となりは富蔵の家で、かれは戸をあけ放したままで町内の銭湯《せんとう》へ出て行った留守であったが、奪《と》られるような物のある家では無し、殊にその男の顔も見知っているので、女房も安心してそう教えたのであった。すこし酔っているらしい男は礼を云って隣りへはいって、上がり框《がまち》に腰かけているらしかったが、そのうちに三味線をぽつんぽつんと弾《ひ》き出した音がきこえた。かれはお津賀の家へ来ても時々に三味線を弾くことがあるので、女房も別に不思議には思わないで自分の米を磨《と》いでしまって家へ帰った。
「それからが騒動なんですよ」と、女房は顔をしかめて話した。「富さんの家で何かどたんばたん[#「どたんばたん」に傍点]という音が聞えたから、どうしたのかと思って駆けつけてみると、富さんは湯あがりの頭からぽっぽっ[#「ぽっぽっ」に傍点]煙《けむ》を立てて、その叔父さんという人の胸倉を掴んで、ひどい権幕で何か掛け合いを付けているんです。だんだん訊《き》いてみると、その人が富さんの猫を撲《ぶ》ち殺してしまったという一件なんです」
「なぜ殺したんだろう。だしぬけに踊り出したのかえ」と、半七は訊いた。
「そうなんですよ。踊り出したんですよ」
女房の説明によると、富蔵は自分の飼っている白い仔猫に踊りを仕込むために、長火鉢に炭火をかんかん熾《おこ》して、その上に銅の板を置く。それは丁度かの文字焼を焼くような趣向である。その銅の板の熱くなった頃に仔猫の胴中を麻縄で縛って、天井から火鉢の上に吊りさげて、四本の足が丁度その銅の板を踏むようにすると、板は焼け切っているから、猫はその熱いのにおどろいて、思わず前後の足を代る代るにひょいひょい揚げる。それを待ち設けて、富蔵は爪弾きで三味線を弾き出すのである。勿論はじめのうちは猫の足どりを見て、こっちで巧く調子を合わせて行かなければならないのであるが、それがだんだんに馴れて来ると、猫の方から調子にあわせて前後の足をひょいひょいと揚げるようになる。更に馴れて来ると、普通の板や畳の上でも三味線の音につれて自然に足をあげるようになる。観世物小屋で囃し立てる猫の踊りは皆こうして仕込むので、富蔵もふた月ほどかかってこの白猫を馴らした。
根気よく馴らして教えて、猫もどうやら斯うやら商売物になろうとしたところを、かの男に突然撲ち殺されてしまったのである。勿論、殺した方にも相当の理窟はあった。かれは框に腰をかけてぼんやりと待っている退屈まぎれに、壁にかけてある三味線をふと見付けて、少し酔っている彼はその三味線をおろして来てぽつんぽつんと弾きはじめると、長火鉢の傍にうずくまっていた白猫が、その爪弾きの調子にあわせて俄かに踊り出した。彼は実にびっくりした。うす暗い夕方の逢魔《おうま》が時《とき》に、猫がふらふらと起って踊り出したのであるから、異常の恐怖に襲われた彼は、もう何もかんがえている余裕もなかった。かれは持っている三味線を持ち直して猫の脳天を力任せになぐり付けると、猫はそのままころりと倒れて死んだ。そこへ飼い主の富蔵が帰って来た。
誰がなんと云おうとも、ひとの留守へ無断にはいり込むという法はないと富蔵は怒った。おまけに大切な商売物をぶち殺してしまって、この始末はどうしてくれると彼は眼の色を変えて哮《たけ》った。その事情が判ってみると、男もひどく恐縮していろいろにあやまったが、富蔵は承知しなかった。自分も係り合いがあるので、かの女房も一緒に口を添えてやったが、富蔵はどうしても肯《き》かないで、殺した猫を生かして返すか、さもなくばその償《つぐな》い金を十両出せと迫った。それをいろいろにあやまって、結局半金の五両に負けて貰う事になったが、男にはその五両の持ち合わせがないので、どうか大晦日《おおみそか》まで待ってくれと頼むのを、富蔵は無理におさえ付けて、腕ずくでその紙入れを
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