事だったんですか」
「火の大きくならなかったのも、お稲荷様のおかげだと云って、長屋じゅうの者も喜んでいます」と、家主は云った。
「喜ぶのは間違っている」と、半七はあざ笑った。「お稲荷さまに御利益《ごりやく》があるなら、はじめからこんな騒ぎを仕出来《しでか》さねえがいい。家を焼いて、人を殺して、御利益もねえもんだ。いっそ刷毛《はけ》ついでにこの稲荷も燃《も》してしまっちゃあどうです」
 無法なことを云うとは思ったらしいが、相手が相手なので、家主は苦《にが》り切って黙っていると、半七は足下《あしもと》にまだちろちろ[#「ちろちろ」に傍点]と燃えている木のきれを拾って松明《たいまつ》のように振りあげた。
「ようがすかえ。この稲荷に火をつけますぜ」
「お前さん。とんでもないことを……」
 家主はあわててその腕を押えると、半七は委細かまわず又呶鳴った。
「ええ、構うものか、こんな稲荷……。さあ、焼くぞ、こんな燧石箱《ひうちばこ》のような小っぽけな祠《ほこら》は、またたく間に灰にしてしまうぞ。野良狐《のらぎつね》が隠れているなら早く出て来い」
 稲荷様もこれには驚いたのかも知れない。その声に応じて正面の扉がさっとあいた。しかも這い出して来たのは野良狐ではなかった。それは頭から煤《すす》を浴びた五十前後の男であった。
「お前は市丸太夫だろう。正直にいえ」と、半七はかれの腕をつかんだ。「どうも稲荷様の中でごそごそ[#「ごそごそ」に傍点]いうと思ったら、案の定《じょう》こんな狐が這い込んでいた。さあ、番屋へ来い」
 町内の自身番へ引っ立てられて行った男は、果たして彼《か》の市丸太夫であった。かれはふところに小刀《こがたな》を呑んでいたが、その刃には血の痕がなかった。
「お前は富蔵を殺して、火をつけたのか」
「恐れ入りました」と、市丸太夫は白状した。「全くわたくしは富蔵を殺そうと存じてまいりました。しかし殺さないうちに火事が出て、富蔵は焼け死んだのでございます」
「なぜ富蔵を殺そうとした」
「わずかの金に差し支えましたのでございます」
 かれは誤って富蔵の猫を殺した始末を正直に申し立てた。それは長屋の者の推察通り、彼は一昨年の春からお津賀に関係して、毎年江戸へ出るたびに彼女のところへ訪ねて来て、松の内に稼ぎためた金の大部分を絞り取られていた。今年も一年ぶりで訪ねて来ると、あいにくお津賀
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