です。町家を軒別《けんべつ》にまわる町万歳は、乞食万歳などと悪口を云ったものでした。そういう訳ですから、万歳だけは山の手の方が上等でした。いや、その万歳について、こんな話を思い出しましたよ」
「どんなお話ですか」
「いや、坐り直してお聴きなさるほどの大事件でもないので……。あれは何年でしたか、文久三年か元治元年、なんでも十二月二十七日の寒い朝、神田橋の御門外、今の鎌倉|河岸《がし》のところに一人の男が倒れていました。男は二十五六の田舎者らしい風俗で、ふところに女の赤ん坊を抱いていた。それが、このお話の発端《ほったん》です」

 男は息が絶えていた。師走《しわす》の風の寒い一夜を死人のふところに抱かれていた赤児は、もう泣き嗄《か》れて声も出なかったが、これはまだ幸いに生きていた。つい眼と鼻のあいだの出来事であるから、検視のまだ下《お》りないうちに半七はすぐに其の場へ駈け付けてみると、死んだ男のからだには何も怪しい疵《きず》のあとは無かった。抱いている赤児にも別条はなかった。しかし半七をおどろかしたのは、その赤児が二本の鋭い牙《きば》をもっていることであった。赤児は生まれてからまだ二タ月か三月しか経つまいと思われるぐらいの嬰児《みずこ》であったが、その上顎の左右には一本ずつの牙が生えていた。俗にいう鬼っ児である。この鬼っ児をかかえて往来に倒れていた男――それには何かの仔細があるらしく思われた。近所の人にだんだん問い合わせると、前の晩の夜ふけに彼によく似た男が通りがかりの夜鷹蕎麦《よたかそば》を呼び止めて、燗酒《かんざけ》を飲んでいるのを見た者があるとのことであった。それらの話から考えると、かれは寒さ凌《しの》ぎに燗酒をしたたかに飲んでの前後不覚に酔い倒れて、とうとう凍《こご》え死んでしまったのではあるまいかと半七は判断した。かれは木綿の財布に小銭《こぜに》を少しばかり入れているだけで、ほかにはなんにも手掛りになりそうなものを持っていなかったが、半七はその右の手のひらの鼓胝《つづみだこ》をあらためて、彼はおそらく才蔵であろうとすぐ鑑定した。たとえ万歳であろうが、才蔵であろうが、勝手にくらい酔って凍え死んだというだけのことであれば、別にむずかしい詮議はいらない。そのまま町《ちょう》役人に引き渡してしまえばいいのであるが、彼のふところに抱えていた赤児の来歴がどうも判らなかった
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