かいうんじゃねえか」
「そうですよ。あたしはよく知りませんけれど、津の国屋にはお安さんとかいう娘の死霊が祟っているとかという噂ですが……」
「娘の死霊……。そりゃあおいらも初耳だ。そうして、その娘はどうしたんだ」
 相手が乗り気になって耳を引き立てるので、文字春は自然に釣り出されたのと、もう一つには常吉に手柄をさせてやりたいというような下心《したこころ》をまじって、彼女はさきに兼吉から聞かされたお安の一件をくわしく話した。まだその上に自分がお祖師様へ参詣の帰り路で、お安の幽霊らしい若い娘と道連れになったことまで怖々《こわごわ》とささやくと、常吉はいよいよ熱心に耳をかたむけていた。殊に文字春が幽霊のような娘に出逢ったということが彼の興味を惹いたらしかった。彼はその娘の年ごろや人相や服装《みなり》などを一々明細に聞きただして、自分の胸のうちに畳み込んでいるように見えた。
「むむ。こりゃあいいことを聞かしてくれた。師匠、あらためて礼をいうぜ、そんなことはちっとも知らなかった」
 仕出し屋から誂えの肴を持ち込んで来たので、文字春はすぐに酒の支度をした。
「こりゃあ気の毒だな。こんな厄介になっちゃあいけねえ」と、常吉はこころから気の毒そうに云った。
「いいえ、ほんの寒さしのぎにひと口、なんにもございませんけれど、あがってください」
「じゃあ、折角だから御馳走になろう」
 二人は差し向いで飲みはじめた。その間に、文字春は津の国屋の一件について、自分の知っているだけのことを残らずしゃべってしまった。女中のお角は自分が世話をしたんだということも打ち明けた。これも常吉の注意を惹いたらしく、彼はときどきに猪口《ちょこ》をおいて考えていた。なんだか残り惜しそうに引き留める師匠をふり切って、彼は半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]ほどの後にここを出た。
「まだ御用がたくさんある。いい心持に酔っちゃあいられねえ。また来るよ」
 彼は幾らかの金をつつんで、文字春が辞退するのを無理に押しつけるようにして置いて行った。霰はまだ時々にばらばらと降っていた。常吉はその足で再び津の国屋へ引っ返して、なにかの手伝いをしている大工の兼吉を表へ呼び出して、お安のことをもう一度訊きただした。それから女中のお角をよび出して、女房と番頭との関係についても一応詮議すると、お角は文字春にも話した通り、たしかに二人が密会しているらしい証跡を見とどけたと云った。しかし自分は新参者で、それにはなんにも関係のないということを繰り返して弁解していた。常吉はそれだけの調べを終って、更に八丁堀へ顔を出すと、同心たちの意見も心中に一致していて、もう詮議の必要を認めないような口ぶりであった。それでも此の時代に於いては、主人と奉公人との密通は重大事件であるから、なにか新しく聞き込んだことがあったならば、油断なく更に詮議しろとのことであった。常吉はお安の幽霊一件を同心らの前ではまだ発表しなかった。ただ自分には少し腑に落ちないところがあるから、もう一と足踏み込んで詮議してみたいというだけのことを断わって帰って来た。彼はそれからすぐに神田三河町の半七をたずねて、何かしばらく相談して別れた。
 その次の日の午過ぎに津の国屋から女房お藤の葬式《とむらい》が出た。しかし番頭と心中したということになっている以上、無論に表向きの葬式を営むことも出来ないので、日の暮れるのを待ってこっそりと棺桶をかつぎ出した。近所の者もわざと遠慮して、大抵は見送りに行かなかった。文字春も津の国屋へ悔みに行っただけで、葬式の供には立たなかった。大工の兼吉と店の若い者二人と、親類の総代が一人、唯それだけの者が忍びやかに棺のあとについて行った。内福と評判されている津の国屋のおかみさんの葬式があの姿とは、心柄とはいいながらあんまり哀れだと近所の者もささやきあっていた。世間に対して面目ないせいもあろう、主人の次郎兵衛は奥に閉じ籠ったきりで、ほとんど誰にも顔をあわせなかったが、初七日《しょなのか》のすむのを待って再び寺へ帰るとの噂であった。
 女房も番頭も同時に世を去って、あとは若い娘のお雪ひとりである。その上に主人が寺へ帰ってしまったらば、誰が店を取り締って行くであろう、と近所では専ら噂していた。文字春も不安でならなかった。死霊の祟りで津の国屋はとうとう潰れてしまうのかと、彼女はいよいよおそろしく思った。
 そのうちに初七日も過ぎたが、次郎兵衛はやはり津の国屋を立ち退かなかった。彼はあまりに意外の出来事におどろかされて、葬式の出たあくる日から病気になって、どっと床に就いているのだと伝えられた。店の方は休みも同様で、二、三人の親類が来て家内の世話しているらしかった。
 津の国屋の初七日が過ぎて三日の夜であった。文字春は芝のおなじ稼業の家に不幸があって、その悔みに行った帰り途に、溜池の縁《ふち》へさしかかったのはもう五ツ(午後八時)を過ぎた頃であった。津の国屋といい、今夜といい、とかくに忌なことばかり続くので、文字春もいよいよ暗い心持になった。早く帰るつもりであったのが思いのほかに時を費したので、暗い寂しい溜池のふちを通るのが薄気味が悪かった。今日《こんにち》と違って、山王山の麓をめぐる大きい溜池には河獺《かわうそ》が棲むという噂もあった。幽霊の娘と道連れになったことなどを思い出して、文字春はぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。月のない、霜ぐもりとでも云いそうな空で、池の枯蘆《かれあし》のなかでは雁の鳴く声が寒そうにきこえた。文字春は両袖をしっかりとかきあわせて、自分の下駄の音にもおびやかされながら、小股に急いで来ると、暗い中から駈けて来た者があった。
 避ける間もなしに両方が突き当ったので、文字春はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として立ちすくむと、相手はあわただしく声をかけた。
「早く来てください。大変です」
 それは若い女、しかも津の国屋のお雪の声らしいので、文字春はまた驚かされた。
「あの、お雪さんじゃありませんか」
「あら、お師匠さん。いいところへ……。早く来てください」
「一体どうしたの」と、文字春は胸を躍らせながら訊いた。
「店の長太郎と勇吉が……」
「長どんと勇どんが……。どうかしたんですか」
「出刃庖丁で……」
「まあ、喧嘩でもしたんですか」
 暗い中でよく判らないが、お雪はふるえて息をはずませているらしく、もう碌々に返事もしないで、師匠の足もとにべったりと坐ってしまった。
「しっかりおしなさいよ」と、文字春は彼女を抱き起しながら云った。「そうして、その二人はどこにいるんです」
「なんでもそこらに……」
 なにしろ暗いので、文字春にはちっとも見当が付かなかった。水明かりでそこらを透かしてみたが、近いところでは二人の人間があらそっている様子も見えなかった。仕方がなしに彼女は声をあげて呼んだ。
「もし、長さん、勇さん……。そこらにいますか。長さん……、勇さん……」
 どこからも返事の声はきこえなかった。暗さは暗し、不安はいよいよ募ってくるので、文字春はお雪の手を引いて、明るい灯の見える方角へ一生懸命にかけ出した。

     八

 半分は夢中で自分の家のまえまで駈けて来て、文字春は初めてほっ[#「ほっ」に傍点]と息をついた。よく見ると、お雪も真っ蒼になって、今にも再び倒れそうにも思われたので、ともかくも家の中へ連れ込んで、ありあわせの薬や水を飲ませた。すこし落ち着くのを待って今夜の出来事を聞きただすと、それは又意外のことであった。
 今夜お雪が店先へ出ると、あとから若い者の長太郎がついて来て、少し話があるから表までちょいと出てくれというので、なに心なく一緒に出ると、長太郎は突然に短刀を抜いて彼女の眼の先に突きつけた。そうして、そこまで黙って一緒に来いとおどした。相手が鋭い刃物を持っているのにおびやかされて、お雪は声を立てることが出来なかった。両隣りにも人家がありながら、声を立てたら命がないとおどされているので、彼女は身をすくめたままで溜池のふちまで連れて行かれた。
 長太郎はあたりに往来のないのを見て、自分の女房になってくれとお雪に迫った。おどろいて返答に躊躇していると、長太郎はいよいよ迫って、もし自分の云うことを肯かなければ、おまえを殺してこの池へ投げ込んで、自分もあとから身を投げて、世間へは心中と吹聴《ふいちょう》させると云った。お雪はいよいよおびえて、しきりに堪忍してくれと頼んだが、長太郎はどうしても肯かなかった。お雪はもう切羽《せっぱ》つまったところへ、小僧の勇吉があとから駈けて来て、これも出刃庖丁を振りかざして、やにわに長太郎に斬ってかかった。二人は短刀と出刃庖丁とで闘った。お雪は途方にくれて、誰かの救いを呼ぼうとして夢中で駈け出したが、もう気が転倒しているので反対の方角へ足を向けたらしく、あたかもこっちへ帰って来る文字春に突き当ったのであった。
 そう判って見ると、いよいよ捨てては置かれないので、文字春はすぐに津の国屋へ知らせに行った。店でもその報告に驚かされたらしく、若い者二人と小僧二人とが提灯を持って其の場へ駈け付けると、果たして長太郎と勇吉とが血だらけになって枯蘆の中に倒れているのを発見した。どっちも二、三ヵ所の浅手を負った後に、刃物を捨てて組討ちになったらしく、二人は堅く引っ組んだままで池の中へころげ落ちていた。刃物の傷はみな浅手で命にかかわるようなことはなかったが、池へころげ落ちた時に、長太郎は運悪く泥深いところへ顔を突っ込んだので、そのまま息が止まってしまった。勇吉は半死半生の体《てい》であったが、これは手当ての後に正気にかえった。
 お雪を無事に送りとどけて貰ったので、津の国屋では文字春にあつく礼を云った。しかし津の国屋よりもほかに礼を云ってもらいたい人があるので、文字春はさらに桐畑の常吉の家へと報《し》らせに行った。
「どうせ一人死んだことですから、そちらの耳へも無論はいりましょうが、なるべく早い方がいいかと思いまして……」
「いや、それはありがてえ」と、ちょうど居合わせた常吉がすぐに出て来た。「よく知らせてくれた。じゃあ、これから出かけるとしよう。これでこの一件もたいがい眼鼻が付いたようだ。師匠、今にお礼をするよ」
 思い通りに礼を云われて、文字春は満足して帰った。かれはもう死霊の怖いことなどは忘れていた。ちっとぐらい祟られてもいいから、自分も立ち入ってこの事件のために働いて見たいような気にもなった。
 常吉はすぐに津の国屋へ行ってみると、勇吉の傷は右の手に二ヵ所と、左の肩に一ヵ所であったが、どれも手重いものではなかった。それでもよほど弱っているらしいのを常吉はいたわりながら、町内の自身番へ連れて行った。
「おい、小僧。おめえはえれえことをやったな。命がけで主人の娘の難儀を救ったんだ。お上から御褒美が出るかも知れねえぞ。しかしおめえはどうして刃物を持って長太郎のあとから追っかけて行ったんだ。あいつが娘を連れ出すところを見ていたのか」
 弱ってはいたが、勇吉は案外はっきりと答えた。
「はい、見ていました。長太郎が刃物でお雪さんをおどかして、無理にどこへか連れて行こうとするのを見ましたから、空手《からて》じゃあいけないと思って、すぐに台所から出刃庖丁を持ち出して行きました。そうして溜池のところで追っ付いたんです」
「よし、判った。だが、まだ一つ判らねえことがある。おめえはそれを見つけたら、なぜほかの者に知らせねえ。自分一人で刃物を持ち出して行くというのはおかしいじゃねえか」
 勇吉は黙っていた。
「ここが大事のところだ」と、常吉は諭《さと》すように云った。「おめえが褒美を貰うか、下手人《げしゅにん》になるか、二つに一つの大事のところだ、よく落ち着いて返事をしろ」
 勇吉はやはり黙っていた。
「じゃあ、おれの方から云うが、おめえは何か長太郎を怨んでいるな。娘を助ける料簡も無論だが、まだ其のほかに、いっそここで長太郎をやっつけてしまおうという料簡がありゃあしなかったか、どうだ。はっきり云え」

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