すから、もうそんな話は止して下さいよ。なんの因果で、あたしはこんな係り合いになったんでしょうねえ」
 半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《はんとき》あまりも過ぎて、兼吉は再び出ていった。文字春はこわごわながら門口《かどぐち》へ出て見ると、近所の人達もみな門《かど》に出てなにか頻りにいろいろの噂をしていた。津の国屋のまえにも大勢の人があつまって内を覗いていた。きょうも朝から雲った日で、灰を凍らせたような暗い大空が町の上を低く掩っていた。
「おい、師匠。御近所がちっと騒々しいね」
 声をかけられて見返ると、それはここらを縄張りにしている岡っ引の常吉であった。桐畑の幸右衛門はこのごろ隠居同様になって、伜の常吉が専ら御用を勤めている。彼はまだ二十五六の若い男で、こんな稼業には似合わないおとなしやかな色白の、人形のような顔かたちが人の眼について、人形常という綽名《あだな》をとっているのであった。
 人に可愛がられない商売でも、男は男、しかも人形の常吉に声をかけられて文字春は思わず顔をうすく染めた。かれは袖口で口を掩いながら初心《うぶ》らしく挨拶した。
「親分さん。お寒うございます」

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