ぶまれた。
八月になって、津の国屋にもしばらく変ったこともなかったが、十二日の宵に奥の間の仏壇から火が出て、代々の位牌も過去帳も残らず焼けてしまった。宵の口のことであるから、大勢がすぐに消し止めて幸いに大事にはならなかったが、場所もあろうに仏壇から火が出たということが家内の人々を又おびやかした。
「お燈明の火が風にあおられたのです」と、番頭の金兵衛は云った。
この矢先に又こんなことが世間に聞えてはよくないと、金兵衛は努めてそれを秘《かく》して置こうとしたが、誰がしゃべるのか近所ではすぐに知ってしまった。女中のお松ももう居たたまれなくなったと見えて、その月の末に親が病気だというのを口実にして、無理に暇を取って行った。先月にはお米が宿へ下がって、今月はお松が立ち去り、出代り時でもないのに女中がみな居なくなってしまったので、津の国屋では台所働きをする者に差し支えた。近所の桂庵《けいあん》でも忌な噂を知っているので、容易に代りの奉公人をよこさなかった。
「この頃は阿母《おっか》さんとあたしが台所で働くんですよ」と、お雪は文字春に話した。「それでも阿母さんはまだほんとうに足が良くないんですか
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