郎もぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。お角は文字春の家の小女をだまして、師匠の口から常吉にいろいろのことを訴えられたらしいことを探り知ったが、大胆な彼女はわざと平気で澄ましていた。しかし年の若い長太郎はなかなか落ち着いていられなかった。彼は破れかぶれの度胸を据えて、いっそお雪を脅迫して何処へか誘拐して行こうと企てたが、それを勇吉に妨げられて、自分は溜池の泥水を飲んで死んだ。
 こうなると、お角もさすがに平気ではいられなくなった。そのまますぐに姿を隠してしまえば、或いはもう少し生き延びられたかも知れなかったが、こうした女の習いとして彼女は文字春をひどく憎んだ。何をしゃべったか知らないが、男のいい岡っ引を引っ張り込んで、酒を飲ませてふざけながら、自分たちの秘密を洩らしたかと思うと、お角はむやみに文字春が憎らしくなって、行きがけの駄賃に殺すつもりか、それとも顔にでも傷をつけるつもりか、ともかくも彼女の家へ押掛けて行ったのが運の尽きで、お角はわが身を井戸へ沈めることとなったのである。勿論、死人に口なしで、お角がほんとうの料簡はよく判らない。事情の成行きで唯こう想像するだけのことであった。
 徒党の者はすべてその罪状を白状した。源助は一旦その姿を晦《くら》ましたが、千住の友達へ立ち廻ったところを捕えられた。主犯者の池田屋と大桝屋は死罪、菩提寺の住職とお兼は遠島、その他の者は重追放を申し渡された。
 これでこの怪談は終ったが、ついでに付け加えて置きたいのは、その明くる年に桐畑と津の国屋とに二組の縁談の纒《まと》まったことであった。一方は常吉と文字春とで、一方は勇吉とお雪であった。常吉は二十六で、文字春は二十七であった。勇吉は十七で、お雪は十八であった。もっとも、津の国屋の方は約束だけで、ほんとうの祝言はもう一年繰り延べることとなったが、二組ともに一つずつの年上の嫁を持つというのは、そこに何かの因縁があったのかも知れないと、大工の兼吉は仔細ありそうに話していた。

「どうです。かなり入り組んでいるでしょう」と、半七老人は笑いながら云った。「くどくもいう通り、随分廻り遠い計略で、今日の人達から考えると、あんまり馬鹿々々しいように思われるかも知れませんが、第一には何といっても昔の人間は気が長い。もう一つには金儲けということがなかなかむずかしかったからですね。津の国屋――津国屋と書くのがほんとうだそうですが、暖簾にはやはり津の国屋と、の[#「の」に傍点]の字を入れてありました。読みいいためでしょう――は何でも地所家作を合わせて二、三千両の身代だったそうです。その頃の二、三千両と云えばこの頃の十万円ぐらいに当るでしょうから、それだけのものをただ取るには並大抵のことではむずかしい。大勢の人間が知恵をしぼって、暇をつぶしても二、三千両の身代を乗っ取れば、まず大出来だったんでしょうよ。今日のようにボロ会社を押っ立てて新聞へ大きな広告をして、ぬれ手で何十万円を掻き込むなんていう、そんな器用な芸当をむかしの人間は知りませんからね。十万円の金を儲けるにも、これほど手数がかかった芝居をしたんです。それを思うと、むかしの悪党は今の善人よりも馬鹿正直だったかも知れませんね。あははははは」
 これもやはりほんとうの怪談ではなかった。わたしは何だか一杯食わされたような心持で、老人の笑い顔をうっかりと眺めていた。



底本:「時代推理小説 半七捕物帳(二)」光文社文庫、光文社
   1986(昭和61)年3月20日初版1刷発行
※「文字春はよいよい」を「文字春はいよいよ」に改めるにあたっては、「半七捕物帳 第二輯」新作社、1923(大正12)年7月20日発行、「定本 半七捕物帳 第二巻」早川書房、1956(昭和31)年1月25日発行、「半七捕物帳(一)」青蛙房、1966(昭和41)年3月20日発行を参照しました。
入力:tat_suki
校正:ごまごま
1999年8月2日公開
2007年11月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全18ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング