文字春も少しかんがえた。だんだんに寒空にむかって、津の国屋で奉公人に困っているのは判り切っている。年は少し老《と》っているし、あまり丈夫そうにも見えないが、この女一人が住み付いてくれれば津の国屋でもどのくらい助かるかもしれない。お雪も水仕事をしないで済むかも知れない。まことにいい都合であると思ったが、なにをいうにも相手は初対面の女である。身許《みもと》も気心もまるで知れないものを迂濶に引き合わせる訳には行かないと、彼女はしばらくその返答に躊躇していると、女もそれを察したらしく、気の毒そうに云った。
「だしぬけに出ましてこんなことを申すのですから、定めて胡乱《うろん》な奴とおぼしめすかも知れませんが、いよいよお使いくださると決まりますれば、身許もくわしく申し上げます。決しておまえさんに御迷惑はかけませんから」
「じゃあ、少しここに待っていてください。ともかくも向うへ行って訊いて来ますから」
 出先でちょうど着物を着かえているのを幸いに、文字春はすぐに津の国屋へ駈けて行った。女房に逢ってその話をすると、津の国屋では困り切っている最中であるので、すぐにその奉公人を連れて来てくれと云った。
「お師匠さんのおかげで助かります」と、お雪もしきりに礼を云った。
 文字春は皆から礼を云われて、善いことをしたと喜びながら家へ帰って、すぐにその女を津の国屋へ連れて行った。女はお角《かく》といって、年が年だけに応待も行儀もひと通り心得ているらしいので、津の国屋では故障なしに雇い入れることに決めた。

     六

 三日の目見得《めみえ》もとどこおりなく済んで、お角は津の国屋へいよいよ住み込むことになった。お雪は菓子折を持って文字春のところへ礼に来た。新参ながらお角はひどく女房の気に入っているという話を聞いて、文字春もまず安心した。
 お角も礼に来た。それが縁になって、お角は使に出たついでなどに文字春のところへ顔を出した。そうして、やがて一と月ほども無事にすぎた時に、お角はいつものように訪《たず》ねて来て、文字春となにかの話の末にこんなことをささやいた。
「お師匠さんにもいろいろ御厄介になったんですが、わたくしは津の国屋に長く辛抱できればいいがと思っていますが……」
「でも、大変におかみさんの気に入っているというじゃありませんか」と、文字春は不思議そうに訊いた。
「全くおかみさんは目にかけて下さいますし、お雪さんも善い人ですから、なにも不足はないのでございますが……」
 云いかけて彼女は口をつぐんだ。それを押し詰めて詮議すると、津の国屋の女房お藤は番頭の金兵衛と不義を働いているというのであった。金兵衛は男盛りの独身者《ひとりもの》であるが、お藤はもう五十を越えている。まさかにそんな不埒《ふらち》を働く筈はあるまいと、文字春も初めは容易に信用しなかったが、お角はその怪しい形跡をたびたび認めたというのである。土蔵の奥や二階のひと間へ不義者がそっと連れ立ってゆくのを、自分はたしかに見とどけたと彼女は云った。
「併しそんなことがいつまでも知れずには居りますまい」と、お角は溜息をついた。「もし何かの面倒が起りました時に、わたくしが手引きでも致したように思われましては大変でございます」
 主人の女房と家来とが密通の手引きをした者は、その時代の法としては死罪である。お角が津の国屋に奉公をしているのを恐れるのも無理はなかった。お角は暇をとれば、それで済むが、済まないのは女房と番頭との問題で、万一それが本当であるとすれば、津の国屋が潰れるような大騒動が出来《しゅったい》するに相違ない。死霊の祟りよりもこの祟りの方が覿面《てきめん》に怖く思われて、文字春はまた蒼くなった。
 しかし彼女はまだ一途《いちず》にお角の話を信用することも出来ないので、そんなことを迂濶に口外してはならぬと、くれぐれもお角に口止めをして帰した。
 よもやとは思いながら、文字春も幾らかの疑いを懐かないわけには行かなかった。お雪は父が自分から進んで菩提寺へ出て行ったように話していたが、あるいは女房と番頭とが狎《な》れ合いでうまく勧めて追い出したのではあるまいかとも疑われた。年も五十を越して、ふだんは物堅いように見えていた女房に、そんな恐ろしい魔が魅《さ》すというのも、やはり死霊の祟りではあるまいかとも恐れられた。
 お安という女の執念はいろいろの祟りをなして、結局、津の国屋をほろぼすのではあるまいかとも思われた。併しこればかりは、文字春は誰に話すことも出来なかった。お雪にかま[#「かま」に傍点]をかけて聞き出すことも出来なかった。
「いくら願っても、お暇をくださらないので困ります」
 お角はその後にも来て文字春に話した。この間からお暇を願っているが、おかみさんがどうしても肯いてくれない。お給金が不
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