笑ってみせた。「実はね、津の国屋の惣領娘がわずらいつく二、三日まえの晩に、近所の者が外へ出ると、町内の角で一人の娘に逢った。娘は撫子《なでしこ》の模様の浴衣《ゆかた》を着て……」
「もう止してください。わかりましたよ」と、文字春はもう身動きが出来なくなったらしく、片手を畳に突いたままで眼を据えていた。
「いや、もうちっとだ。その娘がどうしても津の国屋の貰い娘のお安ちゃんに相違ねえので、思わず声をかけようとすると、娘の姿は消えてしまったという話だ。おいらもその話をかねて聞いていたが、なにを云うのかと思って碌に気にも留めずにいたが、今夜の師匠の話を聴いてみると、成程それも嘘じゃなかったらしい。そのお安ちゃんが又お迎いにやって来たんだ。津の国屋のお雪ちゃんは今年十七になったからね」
 台所でかたり[#「かたり」に傍点]という音がきこえたので、文字春はまたぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。菓子を買いに行った小女が今ようやく帰って来たのであった。

     三

 文字春はその晩おちおち眠られなかった。撫子の浴衣を着た若い女が蚊帳《かや》の外から覗いているような夢におそわれて、少しうとうとするかと思うとすぐに眼がさめた。あいにくに蒸し暑い夜で、彼女の枕紙はびっしょり濡れてしまった。あくる朝も頭が重くて胸がつかえて、あさ飯の膳にむかう気にもなれなかった。きのう遠路《とおみち》を歩いたので暑さにあたったのかも知れないと、小女の手前は誤魔かしていたが、彼女の頭のなかは云い知れない恐怖に埋められていた。仏壇には線香を供えて、彼女はよそながらお安という娘の回向《えこう》をしていた。
 近所の娘たちはいつもの通りに稽古に来た。津の国屋のお雪も来た。お雪の無事な顔をみて、文字春はまずほっ[#「ほっ」に傍点]と安心したが、そのうしろには眼にみえないお安の影が付きまとっているのではないかと思うと、彼女はお雪と向い合うのがなんだか薄気味悪かった。稽古が済むと、お雪はこんなことを云い出した。
「お師匠《しょ》さん、ゆうべは変なことがあったんですよ」
 文字春は胸をおどらせた。
「かれこれ五ツ半(午後九時)頃でしたろう」と、お雪は話した。「あたしが店の前の縁台に腰をかけて涼んでいると、白地の浴衣を着た……丁度あたしと同い年くらいの娘が家の前に立って、なんだか仔細ありそうに家の中をいつまでも覗いているんです。どうもおかしな人だと思っていると、店の長太郎も気がついて、なにか御用ですかと声をかけると、その娘は黙ってすう[#「すう」に傍点]と行ってしまったんです。それから少し経つと、知らない駕籠屋が来て駕籠賃をくれと云いますから、それは間違いだろう、ここの家で駕籠なんかに乗った者はないと云うと、いいえ、四谷見附のそばから娘さんを乗せて来ました。その娘さんは町内の角で降りて、駕籠賃は津の国屋へ行って貰ってくれと云ったから、それでここへ受け取りに来たんだと云って、どうしても肯《き》かないんです」
「それから、どうして……」
「それでも、こっちじゃ全く覚えがないんですもの」と、お雪は不平らしく云った。「番頭も帳場から出て来て、一体その娘はどんな女だと訊くと、年ごろは十七八で撫子の模様の浴衣を着ていたと云うんです。してみると、たった今ここの店を覗いていた娘に相違ない。そんないい加減なことを云って、駕籠賃を踏み倒して逃げたんだろうと云っていると、奥からお父っさんが出て来て、たとい嘘にもしろ、津の国屋の暖簾を指《さ》されたのがこっち不祥だ。駕籠屋さんに損をさせては気の毒だと云って、むこうの云う通りに駕籠賃を払ってやったら、駕籠屋も喜んで帰りました。お父っさんはそれぎりで奥へはいってしまって、別になんにも云いませんでしたけれど、あとで店の者たちは、ほんとうに今どきの娘は油断がならない。あんな生若《なまわか》い癖に駕籠賃を踏み倒したりなんかして、あれがだんだん増長すると騙《かた》りや美人局《つつもたせ》でもやり兼ねないと……」
「そりゃ全くですわね」
 なにげなく相槌《あいづち》を打っていたが、文字春はもう正面からお雪の顔を見ていられなくなった。騙りや美人局どころの話ではない。かの娘の正体がもっともっと恐ろしいものであることを、お雪は勿論、店の者たちも知らないのである。そのなかで主人一人がなんにも云わずに素直に駕籠賃を払ってやったのは、さすがに胸の奥底に思いあたることがあるからであろう。お安の魂は、御堀端で自分に別れてから、さらに駕籠屋に送られて津の国屋まで乗り込んで来たのである。なんにも知らないで其の話をしているお雪のうしろには、きっと撫子の浴衣の影が煙《けむ》のように付きまつわっているに極まった。それを思うと、文字春は恐ろしくもあり、また可哀そうでもあった。
 慾得ずくばかり
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