#「ほっ」に傍点]と息をついた。よく見ると、お雪も真っ蒼になって、今にも再び倒れそうにも思われたので、ともかくも家の中へ連れ込んで、ありあわせの薬や水を飲ませた。すこし落ち着くのを待って今夜の出来事を聞きただすと、それは又意外のことであった。
 今夜お雪が店先へ出ると、あとから若い者の長太郎がついて来て、少し話があるから表までちょいと出てくれというので、なに心なく一緒に出ると、長太郎は突然に短刀を抜いて彼女の眼の先に突きつけた。そうして、そこまで黙って一緒に来いとおどした。相手が鋭い刃物を持っているのにおびやかされて、お雪は声を立てることが出来なかった。両隣りにも人家がありながら、声を立てたら命がないとおどされているので、彼女は身をすくめたままで溜池のふちまで連れて行かれた。
 長太郎はあたりに往来のないのを見て、自分の女房になってくれとお雪に迫った。おどろいて返答に躊躇していると、長太郎はいよいよ迫って、もし自分の云うことを肯かなければ、おまえを殺してこの池へ投げ込んで、自分もあとから身を投げて、世間へは心中と吹聴《ふいちょう》させると云った。お雪はいよいよおびえて、しきりに堪忍してくれと頼んだが、長太郎はどうしても肯かなかった。お雪はもう切羽《せっぱ》つまったところへ、小僧の勇吉があとから駈けて来て、これも出刃庖丁を振りかざして、やにわに長太郎に斬ってかかった。二人は短刀と出刃庖丁とで闘った。お雪は途方にくれて、誰かの救いを呼ぼうとして夢中で駈け出したが、もう気が転倒しているので反対の方角へ足を向けたらしく、あたかもこっちへ帰って来る文字春に突き当ったのであった。
 そう判って見ると、いよいよ捨てては置かれないので、文字春はすぐに津の国屋へ知らせに行った。店でもその報告に驚かされたらしく、若い者二人と小僧二人とが提灯を持って其の場へ駈け付けると、果たして長太郎と勇吉とが血だらけになって枯蘆の中に倒れているのを発見した。どっちも二、三ヵ所の浅手を負った後に、刃物を捨てて組討ちになったらしく、二人は堅く引っ組んだままで池の中へころげ落ちていた。刃物の傷はみな浅手で命にかかわるようなことはなかったが、池へころげ落ちた時に、長太郎は運悪く泥深いところへ顔を突っ込んだので、そのまま息が止まってしまった。勇吉は半死半生の体《てい》であったが、これは手当ての後に正気にかえった
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