誰が云い出したんだか知りませんけれど、まったく気になりますわ。津の国屋の前には女の幽霊が毎晩立っているなんて、飛んでもないことを云われると、嘘だと思っても気味が悪うござんす」
 文字春はお雪が可哀そうでならなかった。お雪はなんにも知らないに相違ない。知らなければこそ平気でそんなことを云っているのであろう。むしろ正直に何もかも打ち明けて、なんとか用心するように注意してやりたいとは思ったが、どうも思い切ってそれを云い出すほどの勇気がなかった。かれはいい加減の返事をして其の場を済ませてしまった。
 盆休みが過ぎてから、お雪は師匠のところへ来て又こんなことを云った。
「お師匠さん。家《うち》のお父っさんは隠居して坊主となると云い出したのを、阿母さんや番頭が止めたんで、まあ思い止まることになったんですよ」
「坊主に……」と、文字春もおどろいた。「旦那が坊主になるなんて、一体どうなすったんでしょうねえ」
 十二日の朝、菩提寺の住職が津の国屋へ来た。棚経《たなぎょう》を読んでしまってから、彼は近ごろ御親類中に御不幸でもござったかと訊いた。この矢先に突然そんなことを訊かれて、津の国屋の夫婦もぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。併しなんにも心当りはないと答えると、住職は首をかしげて黙っていた。その素振りがなんとなく仔細ありそうにも見えたので、夫婦はだんだん問いつめると、この頃三夜ほど続いて、津の国屋の墓のまえに若い女の姿が煙《けむ》のように立っているのを、住職はたしかに見とどけたというのであった。着物の色模様ははっきりとは判らなかったが、白地に撫子を染め出してあったように見えたと、住職はさらに説明した。
 それでもやはり心あたりはないと云い切って、夫婦は相当の御経料を贈って、住職を帰してやったが、その夕方からお藤の足はまた強く痛み出した。次郎兵衛も気分が悪いと云って宵から寝てしまった。夜なかに夫婦が交る交るに唸り出したので、家《うち》じゅうの者がおどろいて起きた。お藤の痛みは翌日幸いに薄らいだが、次郎兵衛はやはり気分が悪いと云って、飯も碌々に食わないで半日は寝たり起きたりしていたが、午すぎから寺まいりに出て行った。しかしその晩、迎い火を焚く時に、主人だけは門口《かどぐち》へ顔を出さなかった。
 十五の送り火を焚いてしまってから、次郎兵衛は女房と番頭とを奥の間へ呼んで、自分はもう隠居すると
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