三郎は云った。
旅人が無事に箱根を越せば、その夜の宿で山祝いをするのが当時の習いであるので、本来ならば主人の市之助から供の二人に三百文ずつの祝儀をやって、ほかに酒でも振舞うべきであった。市之助も勿論その祝儀を出した。その二人分の六百文を七蔵はみんなふところに押し込んでしまって、更に喜三郎にむかって山祝いの酒を買えと強請《いたぶ》りかけると、喜三郎は素直に承知した。
市之助はさすがに武家|気質《かたぎ》で、仮りにも供と名の付くものに酒を買わせる法はないというのを、七蔵は無理におさえつけて、万事わたくしに任せてくれと云った。主人の振舞ってくれる酒では羽目《はめ》をはずして飲むわけにはゆかないので、彼は喜三郎をいたぶって、今夜も存分に飲もうという目算《もくさん》であった。その目算通りに、喜三郎は山祝いを快く引きうけて、宿の女中に酒や肴をたくさん運ばせた。
「今夜はまずめでたいな」と、市之助は云った。
「おめでとうございます」と、供の二人も頭をさげた。
強《し》いられて市之助もすこし飲んだ。七蔵は止め度もなしに飲んだ。いい頃を見はからって、喜三郎は他愛のない七蔵を介抱して主人のまえを退がった。主人は奥の下座敷の六畳に寝て、供のふたりは次の間の四畳半の相部屋で寝た。その夜なかに喜三郎は裏二階の客二人を殺して、どこへか姿を隠したのであった。
「さては盗賊か」と、市之助はおどろいた。
七蔵も今更におどろいた。金と酒とに眼がくれて、飛んでもないものを連れて来たと、彼もさすがに顔色を変えた。
前にもいう通り、それが当時の習いとは云いながら、素姓の知れないものを供といつわって関所をぬけさせたということが、表向きの詮議になれば面倒であることは云うまでもない。煎じつめれば、これも一種の関破りである。何事もなければ仔細はないが、こういう事件が出来《しゅったい》した以上、もう隠すにも隠されない破目《はめ》になって、市之助は当然その責《せめ》を負わなければならなかった。もう一つの面倒は、御用の道中でありながら、本陣または脇本陣に泊らないで、殊更に普通の旅籠《はたご》屋にとまったということである。そうして、その旅籠屋でこんな事件を生み出したのであるから、市之助の不都合は重々であると云われても、一言の云い開きも出来ない。
年の若い市之助は、その発頭人《ほっとうにん》たる七蔵を手討ちにして、自分も腹を切ろうと覚悟を決めたのである。ゆうべの酒もすっかり醒めてしまって、七蔵はふるえあがった。
「それは御短慮でござります。まずしばらくお待ちくださりませ」
一生懸命に主人をなだめているうちに、彼は宵に廊下で出逢った多吉のことを思い出した。多吉に頼んでその盗賊を取り押えて貰ったら、又なんとか助かる工夫《くふう》もありそうなものだと、彼はすぐにこの部屋に転《ころ》げ込んで来たのであった。
その話を聴いて半七と多吉は顔をみあわせた。
「しかし旦那は立派な覚悟だ。それよりほかにしようはあるめえ。おまえさんも尋常に覚悟を決めたらどうだね」と、半七は云った。
「そんなことを云わねえで、後生《ごしょう》だから助けておくんなせえ。この通りだ」と、七蔵は両手をあわせて半七を拝んだ。根が差したる悪党でもない彼は、もうこうなると生きている顔色《がんしょく》はなかった。
「それほど命が惜しけりゃあ仕方がねえ。おめえはこれから逃げてしまえ」
「逃げてもようがすかえ」
「おめえがいなければ旦那を助ける工夫《くふう》もある。すぐに逃げなせえ。これは少しだが路用の足しだ」
半七は蒲団《ふとん》の下から紙入れを出して、二分金を二枚ほうってやった。そうして、自分の座敷へは戻らずに、すぐに何処へか姿をかくせと教えると、七蔵はその金をいただいて早々に出て行った。
半七は着物を着換えて、奥の下座敷へたずねて行こうとすると、階下《した》の降り口で宿の女中のうろうろしているのに逢った。
「おい。お役人衆はもうお引き揚げになったかえ」
「いいえ」と、女中はふるえながらささやいた。「皆さんはまだ帳場にいらっしゃいます」
「そうかい。下座敷に上下三人づれのお武家が泊っているだろう。その座敷はどこだえ」
「え」と、女中はためらっていた。
その様子で、半七はたいてい覚った。役人たちも市之助主従に眼をつけたのであるが、相手が武士だけに少し遠慮しているらしい。それを女中ももう薄々知っているので、その座敷へ案内するのを躊躇しているのであろう。半七は気が急《せ》くので重ねて催促した。
「え、どの座敷だ。早く教えてくんねえ」
女中は仕方なしに指さして教えた。この縁側をまっすぐに行って、左へまがると風呂場がある。その前を通って奥へゆくと、小さい中庭を隔てたふた間の座敷がそれである、と云った。
「や、ありがとう」
教えられた通りに縁側を伝ってゆくと、その座敷の前に出た。
「ごめん下さいまし」
障子の外から声をかけても、内にはなんの返事もないので、半七は障子をそっと細目にあけて覗くと、蚊帳の釣手は二本ばかり切れて落ちていた。蚊帳のなかには血だらけの男が一人倒れているらしかった。
「もう切腹したのか」
もう遠慮はしていられないので、半七は思い切って障子をあけてはいると、座敷の隅の方に片寄せてある行燈の光りはくずれかかっている蚊帳の青い波を照らして、その波の底に横たわっているのは、かの七蔵の死骸であった。まだぐずぐずしていて、とうとう手討ちに逢ったのかと思ったが、そこらに主人らしい人の影は見えなかった。主人は彼を成敗して、どこへ姿を隠したのであろう。半七は差し当って思案に迷った。
この途端に、縁側で人の窺っているような気配がきこえたので、耳のさとい半七はすぐにからだを捻じ向けて、うす暗い障子の外を透かしてみると、彼にこの座敷のありかを教えてくれた若い女中が縁側に小膝をついて、内の様子を窺っているらしかった。半七は猶予《ゆうよ》なく飛び出して、その女中の腕をつかんで座敷へぐいぐい[#「ぐいぐい」に傍点]と引き摺り込んだ。女中は二十歳ぐらいで、色白の丸顔の女であった。
「おい、おめえはここで何をしていた。正直に云わねえと為にならねえぞ。おめえはこの座敷にいた客のうちで、誰か知っている人でもあるのか。ほかの女中はみんな小さくなって引っ固まっているのに、おめえ一人はさっきから其処《そこ》らをうろうろしているのは、なにか訳があるに相違ねえ。この男を識っているのか」と、半七は蚊帳のなかに倒れている七蔵を指さして訊いた。
女中は身をすくめながら頭《かぶり》をふった。
「それじゃあ連れの男を識っているのか」
女中はやはり識らないと云った。彼女はおどおどして始終うつむき勝ちであったが、ときどきに床の間に列んだ押入れの方へその落ち着かない瞳《ひとみ》を配っているらしいのが、半七の眼についた。その頃の旅籠屋には押入れなどを作っていないのが普通であったが、この座敷は特別の造作《ぞうさく》とみえて、式《かた》ばかりの床の間もあった。それに列んで一間の押入れも付いていた。
その押入れを横眼に見て、半七はうなずいた。
三
「おい、ねえさん。隠しちゃいけねえ。おめえはどうしてもこの座敷の三人のうちに、何か係り合いがあるに相違ねえ。正直にいえばよし、さもなければお前を引き摺って行って、役人衆に引き渡すからそう思え。そうなったら、おめえばかりじゃねえ、ほかにも迷惑する人が出来るかも知れねえぜ。おめえが素直に白状してくれれば、おれが受け合って誰にも迷惑をかけねえようにしてやる。まだ判らねえか。おれは江戸の御用聞きで、今夜丁度ここへ泊りあわせたんだ。決して悪いようにしねえから何もかも云ってくれ」
半七の素姓を聞かされて、若い女中はいよいよおびえたらしく見えたが、いろいろ嚇《おど》されて、賺《すか》されて、彼女はとうとう正直に白状した。かれはお関という女で、おとどしからここに奉公している者であった。ゆうべこの座敷で山祝いの酒が出たときに、お関はその給仕に出て皆の酌をしたが、供の二人にくらべると、さすがに主人の若い武家は水際《みずぎわ》立って立派に見えたので、こっちも年の若いお関の眼は兎角にその人の方にばかり動いた。供の二人はそれを早くも見つけて、いろいろにお関をなぶった。そうして、おれ達にたのめばきっと旦那に取り持ってやるなどと云った。
その冗談がほんとうになって七蔵が便所《はばかり》に行ったのを送って行ったお関は、廊下でそっと彼に取り持ちを頼むと、酔っている七蔵は無雑作《むぞうさ》に受け合って、おれから旦那にいいように吹き込んでやるから、家《うち》じゅうが寝静まった頃に忍んで来いと云った。お関はそれを真《ま》に受けて、夜ふけにそっと自分の寝床をぬけ出して行ったが、市之助の座敷のまえまで来て彼女はまた躊躇した。障子の引手に手をかけて、かれは急に恥かしくなった。まず媒妁人《なこうど》の七蔵をよび起して、今夜の首尾を確かめようと、彼女は更に次の間の障子をあけると、酔い潰れた七蔵は蚊帳から片足を出して蟒蛇《うわばみ》のような大鼾《おおいびき》をかいていた。一つの蚊帳に枕をならべている筈の喜三郎の寝床は空《から》になっていた。
いくら揺り起しても、七蔵はなかなか眼を醒まさないので、お関もほとほと持て余していると、そこへ喜三郎が外からぬっ[#「ぬっ」に傍点]とはいって来た。彼はお関を見てひどくびっくりしたような様子で、しばらく突っ立ったままでじっと睨んでいるので、お関はいよいよきまりが悪くなって、行燈の油をさしに来たのだと誤魔かして、早々にそこを逃げ出した。
それでも未練で、彼女はまだ立ち去らずに縁側に忍んでいると、内では七蔵が眼を醒ましたらしかった。そうして、喜三郎となにかひそひそ話し合っているらしかったが、やがて再び障子がそっとあいたので、お関は碌々にその人の姿も見きわめないで、あわてて自分の部屋に逃げて帰った。裏二階の人殺しがほんとうの油差しの男に発見されたのは、それから小半刻《こはんとき》の後であった。
自分のかかり合いになるのを恐れて、お関は役人に対して何も口外しなかったが、前後の模様からかんがえると、自分が七蔵の座敷に忍びこんだときに、喜三郎は人を殺して帰って来て、七蔵となにか相談して又そこを出て、中庭から塀越しに逃げ去ったものらしく思われた。勿論、自分はその事件に何のかかり合いもないのであるが、丁度その座敷に居あわせたという不安と、もう一つは市之助の身を案じて、先刻からそこらにうろうろしているのであった。
「そうか。判った」と、半七はその話を聴いてうなずいた。「して、その武家はどうした」
「今までここにおいででしたが……」
「隠していちゃあいけねえ。ここか」と、半七は押入れを頤《あご》で示して訊いた。
その声は低かったが、隠れている人の耳にはすぐ響いたらしい。お関が返事をする間もなく、押入れの戸をさらりとあけて、若い侍が蒼ざめた顔を出した。かれは片手に刀を持っていた。
「わたしは小森市之助だ、家来を手討ちにして切腹しようとするところへ、人の足音がきこえたので、召捕られては恥辱と存じて、ひとまず押入れに身をかくしていたが、覚られては致し方がない。どうぞ情けに切腹させてくれ」
刀を取り直そうとする臂《ひじ》のあたりを、半七はあわてて掴んだ。
「御短慮でございます。まずお待ちくださいまし。この七蔵は又引っ返して参ったのでございますか」
「切腹と覚悟いたしたれば、身を浄《きよ》めようと存じて湯殿へ顔を洗いにまいって、戻ってみれば重々不埒な奴、わたしの寝床の下に手を入れて、胴巻をぬすみ出そうと致しておった。所詮助けられぬとすぐ手討ちにいたした」
七蔵の手には果たして胴巻をつかんでいた。抱き起してみると、まだ息が通っているらしいので、半七は取りあえず気付けの薬をふくませた。お関に云いつけて、冷たい水を汲んできて飲ませた。手当ての甲斐があって、七蔵はようように正気が付いた。
「やい、しっかりしろ」と、半七は彼の
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