、自分も腹を切ろうと覚悟を決めたのである。ゆうべの酒もすっかり醒めてしまって、七蔵はふるえあがった。
「それは御短慮でござります。まずしばらくお待ちくださりませ」
 一生懸命に主人をなだめているうちに、彼は宵に廊下で出逢った多吉のことを思い出した。多吉に頼んでその盗賊を取り押えて貰ったら、又なんとか助かる工夫《くふう》もありそうなものだと、彼はすぐにこの部屋に転《ころ》げ込んで来たのであった。
 その話を聴いて半七と多吉は顔をみあわせた。
「しかし旦那は立派な覚悟だ。それよりほかにしようはあるめえ。おまえさんも尋常に覚悟を決めたらどうだね」と、半七は云った。
「そんなことを云わねえで、後生《ごしょう》だから助けておくんなせえ。この通りだ」と、七蔵は両手をあわせて半七を拝んだ。根が差したる悪党でもない彼は、もうこうなると生きている顔色《がんしょく》はなかった。
「それほど命が惜しけりゃあ仕方がねえ。おめえはこれから逃げてしまえ」
「逃げてもようがすかえ」
「おめえがいなければ旦那を助ける工夫《くふう》もある。すぐに逃げなせえ。これは少しだが路用の足しだ」
 半七は蒲団《ふとん》の下から紙入れを出して、二分金を二枚ほうってやった。そうして、自分の座敷へは戻らずに、すぐに何処へか姿をかくせと教えると、七蔵はその金をいただいて早々に出て行った。
 半七は着物を着換えて、奥の下座敷へたずねて行こうとすると、階下《した》の降り口で宿の女中のうろうろしているのに逢った。
「おい。お役人衆はもうお引き揚げになったかえ」
「いいえ」と、女中はふるえながらささやいた。「皆さんはまだ帳場にいらっしゃいます」
「そうかい。下座敷に上下三人づれのお武家が泊っているだろう。その座敷はどこだえ」
「え」と、女中はためらっていた。
 その様子で、半七はたいてい覚った。役人たちも市之助主従に眼をつけたのであるが、相手が武士だけに少し遠慮しているらしい。それを女中ももう薄々知っているので、その座敷へ案内するのを躊躇しているのであろう。半七は気が急《せ》くので重ねて催促した。
「え、どの座敷だ。早く教えてくんねえ」
 女中は仕方なしに指さして教えた。この縁側をまっすぐに行って、左へまがると風呂場がある。その前を通って奥へゆくと、小さい中庭を隔てたふた間の座敷がそれである、と云った。
「や、ありがとう」
 教えられた通りに縁側を伝ってゆくと、その座敷の前に出た。
「ごめん下さいまし」
 障子の外から声をかけても、内にはなんの返事もないので、半七は障子をそっと細目にあけて覗くと、蚊帳の釣手は二本ばかり切れて落ちていた。蚊帳のなかには血だらけの男が一人倒れているらしかった。
「もう切腹したのか」
 もう遠慮はしていられないので、半七は思い切って障子をあけてはいると、座敷の隅の方に片寄せてある行燈の光りはくずれかかっている蚊帳の青い波を照らして、その波の底に横たわっているのは、かの七蔵の死骸であった。まだぐずぐずしていて、とうとう手討ちに逢ったのかと思ったが、そこらに主人らしい人の影は見えなかった。主人は彼を成敗して、どこへ姿を隠したのであろう。半七は差し当って思案に迷った。
 この途端に、縁側で人の窺っているような気配がきこえたので、耳のさとい半七はすぐにからだを捻じ向けて、うす暗い障子の外を透かしてみると、彼にこの座敷のありかを教えてくれた若い女中が縁側に小膝をついて、内の様子を窺っているらしかった。半七は猶予《ゆうよ》なく飛び出して、その女中の腕をつかんで座敷へぐいぐい[#「ぐいぐい」に傍点]と引き摺り込んだ。女中は二十歳ぐらいで、色白の丸顔の女であった。
「おい、おめえはここで何をしていた。正直に云わねえと為にならねえぞ。おめえはこの座敷にいた客のうちで、誰か知っている人でもあるのか。ほかの女中はみんな小さくなって引っ固まっているのに、おめえ一人はさっきから其処《そこ》らをうろうろしているのは、なにか訳があるに相違ねえ。この男を識っているのか」と、半七は蚊帳のなかに倒れている七蔵を指さして訊いた。
 女中は身をすくめながら頭《かぶり》をふった。
「それじゃあ連れの男を識っているのか」
 女中はやはり識らないと云った。彼女はおどおどして始終うつむき勝ちであったが、ときどきに床の間に列んだ押入れの方へその落ち着かない瞳《ひとみ》を配っているらしいのが、半七の眼についた。その頃の旅籠屋には押入れなどを作っていないのが普通であったが、この座敷は特別の造作《ぞうさく》とみえて、式《かた》ばかりの床の間もあった。それに列んで一間の押入れも付いていた。
 その押入れを横眼に見て、半七はうなずいた。

     三

「おい、ねえさん。隠しちゃいけねえ。おめえはどうしてもこの座敷
前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング