、弁天様の嫉妬の怒りに触れて、相手の男はことごとく亡ぼされてしまうのであるというので、弁天娘の美しそうな異名《いみょう》も彼女に取っては恐ろしい呪《のろ》いの名であった。
 よもやとそれを打ち消す人たちも、お此が弁天様の申し子であるという事実を否認するわけには行かなかった。で、弁天堂へ日参をはじめてから、山城屋の女房が懐胎してお此をうみ落したのは事実であると、利兵衛は云った。
「なにしろ困ったものでございます」と、彼は語り終って溜息をついた。「香花《こうはな》茶の湯から琴三味線の遊芸まで、みな一と通りは心得ていますし、容貌《きりょう》はよし、生まれ付きおとなしく、まず申し分はないのでございますが、右の一件でどうにもなりません。明けてもう二十七になります。ひとり娘ではあり、そういう訳でございますから、親たちもひとしお不憫《ふびん》が加わりまして、それはそれは大切に可愛がっているのでございます。それでも当人は人出入りの多い店の方にいるのを忌《いや》がりまして、この頃では裏の隠居所の方に引っ込んで、今年八十一になります女隠居と二人で暮らしております」
「その隠居所には、隠居さんと娘のほかに誰もいないんですか」と、半七は訊いた。
「三度のたべものは店の方から運ばせますが、ほかに小女《こおんな》を一人やってございます。それはお熊と申しまして、まだ十五の山出しで、いっこうに役にも立ちません」
「隠居さんも、八十一とは随分長命ですね」
「はい。めでたい方でございます。しかし何分にも年でございますから、この頃は耳も眼もうとくなりまして、耳の方はつんぼう同様でございます」
「そうでしょうね」
 役に立たない小女と、眼も耳もうとい隠居婆さんと、縁遠い容貌よしの娘と、この三人を組みあわせて、半七はなにか考えていたが、やがてしずかに云い出した。
「なにしろ困ったことだ。そのままにしても置かれますまいから、まあ何とかしてみましょう。そこで、娘は無論そのことを知っているんでしょうね」
「徳次郎の死んだことは知って居りますが、それについて兄が掛け合いにまいりましたことは、まだ当人の耳へは入れてございません。たとい嘘にもしろ、自分が殺したなぞと云われたことが当人に聞えましては、どうもよくあるまいと存じまして、まだ何も聞かさないように致して居ります」
「判りました。じゃあ、まあその積りでやってみましょう。だが、番頭さん。隠居所の方へは誰か気の利《き》いた者をもう一人やっておく方がようござんすね」
「そうでございましょうか」
「その方が無事でしょうよ」
「はい」と、利兵衛はなんだか呑み込めないような顔をしてうなずいた。「では、なにぶん宜しくねがいます」
「つまりお此さんが確かに小僧を殺したか殺さないかが判ればいいんでしょう。それさえ判れば水かけ論じゃあねえ、こっちが立派に云い開きが出来るんですから、金のことなぞはどうとも話が付くでしょう」
「さようでございます。やっぱり御相談をねがいに出てよろしゅうございました。では、くれぐれもお願い申します」
 律儀《りちぎ》一方の利兵衛はくり返して頼んで帰った。こうなると、三社祭りなどは二の次にして、半七はまず山城屋の問題を研究しなければならなかった。徳次郎という小僧は果たして山城屋の娘に殺されたのか。あるいは誰かその兄貴の尻押しをして、山城屋に対して根もない云いがかりをしたのか。半七は午飯を食いながらいろいろに考えた。
「山城屋さんに面倒なことでも出来たんですか」と、女房のお仙は膳を引きながら訊いた。
「むむ。だが、大してむずかしいこともあるめえ。おれはこれから玄庵さんのところへ行ってくるから、着物を出してくれ」
 箸をおくと、すぐに着物を着かえて、半七は傘を持って表へ出ると、雨はまだ未練らしく涙を降らしていたが、だんだん剥《は》げてくる雲のあいだからは薄い日のひかりが柔《やわら》かに流れ出して来た。近所の屋根では雀の鳴く声もきこえた。玄庵は町内に住んでいる町医者で、半七はかねて心安くしているので、参考のためにまずそれをたずねて、口中の病気についていろいろの容態や療治法などを聞きただした上で、さらに相生町の徳蔵の家《うち》をたずねてゆくと、柳原|堤《どて》へ差しかかる頃に空はまったく明るくなって、ぬれた柳のしずくが光りながらこぼれているのも春らしかった。
 両国橋を渡って本所へはいると、徳蔵の家は相生町二丁目にあった。間口は狭いが、ともかくも表店で、きょうは勿論商売を休んでいるらしかった。近所の荒物屋できくと、徳蔵はお留という女房と二人ぐらしで、徳蔵が盤台をかついで商売に出た留守は、お留が店の商いをしているのであった。亭主もよく稼ぎ、女房もかいがいしく働くので、小金は溜めているらしい。あの人達は今に身上《しんしょう》を仕出《しいだ》すであろうと、荒物屋のおかみさんは羨ましそうに話した。
 徳蔵の女房は吉原の河岸店《かしみせ》の勤めあがりで、年《ねん》あきの後に、徳蔵のところへ転《ころ》げ込んで来たのである。亭主よりも四つ年上で、今年二十九になるが、商売あがりには珍らしい位にかいがいしい女で、服装《なり》にも振りにも構わずに朝から晩までよく動く。徳さんは良いおかみさんを持って仕合わせだと、これも近所に羨まれているとのことであった。
 半七は荒物屋を出て、更にほかの家で訊《き》いてみたが、近所の噂はみな一致していて、誰も魚屋の夫婦を悪くいう者はなかった。それほど評判のいい徳蔵が根もないことを云いがかりにして、弟の主人の店へねじ込んで行こうとは思われなかったが、それにしても三百両という大金をねだるのは少し法外であると半七は思った。勿論、人の命に相場はない、千両万両といわれても仕方がないのであるが、それほど正直者の徳蔵が自分の方から金高を切り出して強請《ゆすり》がましいことを云いかけるのがどうも呑み込めないように思われてならなかった。
 この上は正面から魚屋へ押し掛けて、徳蔵夫婦の様子を探るよりほかは無いと思ったので、半七はそこらの紙屋へ寄って、黒い水引《みずひき》と紙とを買って香奠《こうでん》の包みをこしらえた。それをふところにして徳蔵の店へゆくと、狭い家のなかには近所の人らしいのが五、六人つめ掛けていて、線香の匂いが家じゅうにただよっていた。
「ごめんなさい」
 声をかけると、一人の女が起って来た。三十に近い、色の蒼白《あおじろ》い、痩せぎすの女房で、それがお留であるらしいことを半七はすぐに看《み》て取った。
「こちらは魚屋の徳蔵さんでございますか」
「はい」と、女は丁寧に答えた。
「御亭主はお内ですか」
「やどは唯今出ましてございます」
「左様でございますか」と、半七は躊躇しながら云い出した。「実はわたくしは外神田の山城屋さんの町内にいるものでございますが、うけたまわればこちらの徳次郎さんはどうも飛んだことで……。わたくしも御近所で、徳次郎さんとはふだんから御懇意にいたして居りましたので、ちょっとお線香あげに出ました」
「それは、それは、ありがとうございます。穢《きたな》いところでございますが、どうぞこちらへ……」
 女はちょっと眼をふきながら、半七を内へ招じ入れた。どこで借りて来たのか、小綺麗な枕屏風《まくらびょうぶ》が北に立てまわされて、そこには徳次郎の死骸が横たえてあった。半七は式《かた》の通りに線香をささげ、香奠を供えて、それから死骸の枕もとへ這いよった。顔にかけてある手拭を少しまくって、かれはその死に顔をちょっと覗いて、隅の方へ引きさがると、お留は茶を持って来て、ふたたび丁寧に会釈《えしゃく》した。
「おなじみ甲斐にどうもありがとうございました。仏もさぞ喜ぶでございましょう」
「失礼ですが、おまえさんはこちらのおかみさんですかえ」
「はい。徳次郎の嫂《あね》でございます」と、彼女は眼をしばたたいていた。「徳蔵もほかにこれという身寄りも無し、あれ一人をたよりにしていたのでございます」
「かえすがえすも飛んだことで、実にお察し申します」
 半七は繰り返して悔みを述べて、それからだんだん訊き出すと、徳次郎は九つの春から山城屋へ奉公に出て、今年で足かけ八年になる。年の割には利巧で、児柄《こがら》もいい。ことしの正月の藪入りに出て来た時に、となりの足袋屋のおかみさんが彼を見て、徳ちゃんは芝居に出る久松《ひさまつ》のようだと云ったら、かれは黙って真っ紅な顔をしていた。そんなことも今では悲しい思い出の一つであると、お留はしみじみ云った。
 何分にもほかに幾人も坐っているので、半七はその以上に斬り込んで訊くことも出来なかった。おとむらいはと訊くと、きょうの七ツ(午後四時)に深川の寺へ送るのだとお留は答えた。七ツといえばもう間もないのであるから、いっそここに居坐っていたら、そのうちに徳蔵も帰るであろうし、寺まで付いて行ったら又なにかの手がかりを見つけ出さないとも限らないと思ったので、半七は自分も見送りをすると云って、そのままそこに控えていると、やがて一人の若い男が帰って来た。小ぶとりに肥った実体《じってい》そうな男で、お留やほかの人達の挨拶ぶりを見ても、それが徳蔵であることはすぐに判った。そのあとから山城屋の番頭の利兵衛と一人の小僧が付いて来た。
 利兵衛は主人の名代《みょうだい》に見送りに来たと云った。小僧の音吉は奉公人一同の名代であると云った。お留に引きあわされて、半七は徳蔵に挨拶したが、利兵衛は半七に挨拶していいか悪いか迷っているらしいので、半七の方から声をかけて、単に近所の知り合いのように跋《ばつ》をあわせてしまった。そのうちに葬式《とむらい》の時刻もだんだん近づいて、町内の人らしいのが更に七、八人も詰めかけて来たので、せまい家のなかはいよいよ押し合うように混雑して来た。
 その混雑にまぎれて、徳蔵夫婦の姿がどこへか見えなくなった。

     三

 半七はそっと起って台所の口から覗《のぞ》くと、夫婦は裏の井戸端に立っていた。裏は案外ひろい空地になっていて、井戸のそばには夏の日よけに植えたらしく、葉のない一本の碧梧《あおぎり》が大きい枝をひろげていた。その梧の木を背中にして、お留がなにか小声で亭主と話していたが、その様子がどうも穏やかでないらしく、普通の相談事でないように見えたので、半七は半分しめ切ってある腰高の障子に身をかくして、二人の様子をしばらく窺っていると、夫婦の声は少し高くなった。
「だからおまえさんは意気地がないよ。一生に一度あることじゃないじゃないか」と、お留は罵るように云った。
「まあ、静かにしろよ」
「だってさ。あんまり口惜《くや》しいじゃあないか。こうと知ったら、わたしが行けばよかった」
「まあいいよ。人にきこえる」
 徳蔵は女房をなだめながら、思わずうしろを見ると、その眼があたかも半七と出合った。そんなことに馴れている半七は、そこにある手桶の水を柄杓《ひしゃく》に汲んで飲むような振りをして、早々に元のところへ帰って来た。夫婦もやがて帰って来たが、お留の顔色は前より悪かった。ときどき嶮《けわ》しい目をして忌々《いまいま》しそうに利兵衛を睨んでいるのが半七の注意をひいた。
 やがて葬式が出る時刻になって、三十人ほどの見送り人が早桶について行った。それでも天気になって徳ちゃんは後生《ごしょう》がいいなどと云うものもあった。弟の葬式ではあるが、なにかの世話を焼くために徳蔵も一緒に出て行った。お留は門送《かどおく》りだけで家に残っていた。
 雨は晴れたが、本所あたりの路は悪かった。そのぬかるみを渡りながら、半七はわざと後《あと》の方に引き下がって利兵衛と並んで歩いた。
「徳蔵は又お店へ行ったんですかえ」と、半七は歩きながらそっと訊いた。
「また押し掛けて来て困りました」
 徳蔵は三両のとむらい金を貰って一旦帰ったのであるが、午《ひる》すぎになって又出直して来て、どうでも葬式を出すまえにこの一件の埒《らち》をあけてくれと迫った。自分の家の宗旨《しゅうし》は火葬であるから、死骸を焼いてしまえば何も
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