か、小綺麗な枕屏風《まくらびょうぶ》が北に立てまわされて、そこには徳次郎の死骸が横たえてあった。半七は式《かた》の通りに線香をささげ、香奠を供えて、それから死骸の枕もとへ這いよった。顔にかけてある手拭を少しまくって、かれはその死に顔をちょっと覗いて、隅の方へ引きさがると、お留は茶を持って来て、ふたたび丁寧に会釈《えしゃく》した。
「おなじみ甲斐にどうもありがとうございました。仏もさぞ喜ぶでございましょう」
「失礼ですが、おまえさんはこちらのおかみさんですかえ」
「はい。徳次郎の嫂《あね》でございます」と、彼女は眼をしばたたいていた。「徳蔵もほかにこれという身寄りも無し、あれ一人をたよりにしていたのでございます」
「かえすがえすも飛んだことで、実にお察し申します」
半七は繰り返して悔みを述べて、それからだんだん訊き出すと、徳次郎は九つの春から山城屋へ奉公に出て、今年で足かけ八年になる。年の割には利巧で、児柄《こがら》もいい。ことしの正月の藪入りに出て来た時に、となりの足袋屋のおかみさんが彼を見て、徳ちゃんは芝居に出る久松《ひさまつ》のようだと云ったら、かれは黙って真っ紅な顔をしていた。そんなことも今では悲しい思い出の一つであると、お留はしみじみ云った。
何分にもほかに幾人も坐っているので、半七はその以上に斬り込んで訊くことも出来なかった。おとむらいはと訊くと、きょうの七ツ(午後四時)に深川の寺へ送るのだとお留は答えた。七ツといえばもう間もないのであるから、いっそここに居坐っていたら、そのうちに徳蔵も帰るであろうし、寺まで付いて行ったら又なにかの手がかりを見つけ出さないとも限らないと思ったので、半七は自分も見送りをすると云って、そのままそこに控えていると、やがて一人の若い男が帰って来た。小ぶとりに肥った実体《じってい》そうな男で、お留やほかの人達の挨拶ぶりを見ても、それが徳蔵であることはすぐに判った。そのあとから山城屋の番頭の利兵衛と一人の小僧が付いて来た。
利兵衛は主人の名代《みょうだい》に見送りに来たと云った。小僧の音吉は奉公人一同の名代であると云った。お留に引きあわされて、半七は徳蔵に挨拶したが、利兵衛は半七に挨拶していいか悪いか迷っているらしいので、半七の方から声をかけて、単に近所の知り合いのように跋《ばつ》をあわせてしまった。そのうちに葬式《とむらい》の時刻もだんだん近づいて、町内の人らしいのが更に七、八人も詰めかけて来たので、せまい家のなかはいよいよ押し合うように混雑して来た。
その混雑にまぎれて、徳蔵夫婦の姿がどこへか見えなくなった。
三
半七はそっと起って台所の口から覗《のぞ》くと、夫婦は裏の井戸端に立っていた。裏は案外ひろい空地になっていて、井戸のそばには夏の日よけに植えたらしく、葉のない一本の碧梧《あおぎり》が大きい枝をひろげていた。その梧の木を背中にして、お留がなにか小声で亭主と話していたが、その様子がどうも穏やかでないらしく、普通の相談事でないように見えたので、半七は半分しめ切ってある腰高の障子に身をかくして、二人の様子をしばらく窺っていると、夫婦の声は少し高くなった。
「だからおまえさんは意気地がないよ。一生に一度あることじゃないじゃないか」と、お留は罵るように云った。
「まあ、静かにしろよ」
「だってさ。あんまり口惜《くや》しいじゃあないか。こうと知ったら、わたしが行けばよかった」
「まあいいよ。人にきこえる」
徳蔵は女房をなだめながら、思わずうしろを見ると、その眼があたかも半七と出合った。そんなことに馴れている半七は、そこにある手桶の水を柄杓《ひしゃく》に汲んで飲むような振りをして、早々に元のところへ帰って来た。夫婦もやがて帰って来たが、お留の顔色は前より悪かった。ときどき嶮《けわ》しい目をして忌々《いまいま》しそうに利兵衛を睨んでいるのが半七の注意をひいた。
やがて葬式が出る時刻になって、三十人ほどの見送り人が早桶について行った。それでも天気になって徳ちゃんは後生《ごしょう》がいいなどと云うものもあった。弟の葬式ではあるが、なにかの世話を焼くために徳蔵も一緒に出て行った。お留は門送《かどおく》りだけで家に残っていた。
雨は晴れたが、本所あたりの路は悪かった。そのぬかるみを渡りながら、半七はわざと後《あと》の方に引き下がって利兵衛と並んで歩いた。
「徳蔵は又お店へ行ったんですかえ」と、半七は歩きながらそっと訊いた。
「また押し掛けて来て困りました」
徳蔵は三両のとむらい金を貰って一旦帰ったのであるが、午《ひる》すぎになって又出直して来て、どうでも葬式を出すまえにこの一件の埒《らち》をあけてくれと迫った。自分の家の宗旨《しゅうし》は火葬であるから、死骸を焼いてしまえば何も
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