なかった。いくら年が若いといっても、息子はもう二十歳《はたち》にもなっている。母の死を近所の誰にも知らせないで、わざわざ隣り町の同商売の家まで駈けて行ったということが、どうも彼の腑に落ちなかった。と云って、それほどの孝行息子がどうして現在の母を残酷に殺したか、その理窟はなかなか考え出せなかった。
「なにしろ、もう一度頼んでおくが、おめえよく気をつけてくれ。五、六日経つと、おれが様子を訊きに来るから」
 半七は念を押して帰った。九月の末には雨が毎日降りつづいた。それから五日ほど経つと、熊蔵の方からたずねて来た。
「よく降りますね。早速ですが例の猫ばばあの一件はなかなか当りが付きませんよ。息子は相変らず毎日かせぎに出ています。そうして、商売を早くしまって、帰りにはきっとおふくろの寺参りに行っているそうで、長屋の者もみんな褒めていますよ。それにね、長屋の奴らは猫婆が斃死《くたば》って好い気味だぐらいに思っているんですから、誰も詮議する者なんぞはありゃしません。家主だって自身番だって、なんとも思っていやあしませんよ。そういうわけだから、どうにもこうにも手の着けようがなくなって……」
 半七は舌打ちした。
「そこを何とかするのが御用じゃあねえか。もうてめえ一人にあずけちゃあ置かれねえ。あしたはおれが直接に出張って行くから案内してくれ」
 あくる日も秋らしい陰気な雨がしょぼしょぼ降っていたが、熊蔵は約束通りに迎いに来た。二人は傘をならべて片門前へ出て行った。
 路地のなかは思いのほかに広かった。まっすぐにはいると、左側に大きい井戸があった。その井戸側について左へ曲がると、また鉤《かぎ》の手に幾軒かの長屋がつづいていた。しかし長屋は右側ばかりで、左側の空地は紺屋《こうや》の干場《ほしば》にでもなっているらしく、所まだらに生えている低い秋草が雨にぬれて、一匹の野良犬が寒そうな顔をして餌をあさっていた。
「此処ですよ」と、熊蔵は小声で指さした。猫婆の南隣りはまだ空家になっているらしかった。二人は北隣りの大工の家へはいった。熊蔵は大工を識っていた。
「ごめん下さい。悪いお天気です」
 外から声をかけると、若い女房のお初が出て来た。熊蔵は框《かまち》に腰をかけて挨拶した。途中で打ち合わせがしてあるので、熊蔵はこの頃この近所へ引っ越して来た人だと云って半七をお初に紹介した。そうして、今度引っ越して来た家はだいぶ傷《いた》んでいるので、こっちの棟梁に手入れをして貰いたいと云った。その尾について、半七も丁寧に云った。
「何分こっちへ越してまいりましたばかりで、御近所の大工さんにだれもお馴染みがないもんですから、熊さんに頼んでこちらへお願いに出ましたので……」
「左様でございましたか。お役には立ちますまいが、この後《のち》ともに何分よろしくお願い申します」
 得意場が一軒ふえることと思って、お初は笑顔をつくって如才なく挨拶した。二人を無理に内に招じ入れて、煙草盆や茶などを出した。外の雨の音はまだ止まなかった。昼でも薄暗い台所では鼠の駈けまわる音がときどきに聞えた。
「お宅も鼠が出ますねえ」と、半七は何気なく云った。
「御覧の通りの古い家だもんですから、鼠があばれて困ります」と、お初は台所を見返って云った。
「猫でもお飼いになっては……」
「ええ」と、お初はあいまいな返事をしていた。彼女の顔には暗い影がさした。
「猫といえば、隣りの婆さんの家はどうしましたえ」と、熊蔵は横合いから口を出した。「息子は相変らず精出して稼いでいるんですか」
「ええ、あの人は感心によく稼ぎますよ」
「こりゃあ此処だけの話だが……」と、熊蔵は声を低めた。「なんだか表町の方では変な噂をしているようですが……」
「へえ、そうでございますか」
 お初の顔色がまた変った。
「息子が天秤棒でおふくろをなぐり殺したんだという噂で……」
「まあ」
 お初は眼の色まで変えて、半七と熊蔵との顔を見くらべるように窺っていた。
「おい、おい、そんな詰まらないことをうっかり云わない方がいいぜ」と、半七は制した。「ほかの事と違って、親殺しだ。一つ間違った日にゃあ本人は勿論のこと、かかり合いの人間はみんな飛んだ目に逢わなけりゃあならない。滅多なことを云うもんじゃあないよ」
 眼で知らされて、熊蔵はあわてたように口を結んだ。お初も急に黙ってしまった。一座が少し白らけたので、半七はそれを機《しお》に座を起った。
「どうもお邪魔をしました。きょうはこんな天気だから棟梁はお内かと思って来たんですが、それじゃあ又出直して伺います」
 お初は半七の家を訊いて、亭主が帰ったら直ぐにこちらから伺わせますと云ったが、半七はあしたまた来るからそれには及ばないと断わって別れた。
「あの女房がはじめて猫婆の死骸を見付けたんだな」と、路地を出ると半七は熊蔵に訊いた。
「そうです。あの嬶、猫婆の話をしたら少し変な面《つら》をしていましたね」
「むむ、大抵判った。お前はもうこれで帰っていい。あとは俺が引き受けるから。なに、おれ一人で大丈夫だ」
 熊蔵に別れて、半七はそれから他へ用達に行った。そうして、夕七ツ(午後四時)前に再び路地の口に立った。雨が又ひとしきり強くなって来たのを幸いに、かれは頬かむりをして傘を傾けて、猫婆の南隣りの空家へ忍び込んだ。彼は表の戸をそっと閉めて、しめっぽい畳の上にあぐらを掻いて、時々に天井裏へぽとぽとと落ちて来る雨漏《あまもり》の音を聴いていた。くずれた壁の下にこおろぎが鳴いて、火の気のない空家は薄ら寒かった。
 ここの家の前を通る傘の音がきこえて、大工の女房は外から帰って来たらしかった。

     四

 それから又半|※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《とき》も経ったと思う頃に、濡れた草鞋の音がこの前を通って、隣りの家の門口《かどぐち》に止まった。猫婆の息子が帰って来たなと思っていると、果たして籠や盤台を卸すような音がきこえた。
「七ちゃん、帰ったの」
 お初が隣りからそっと出て来たらしかった。そうして、土間に立って何か息もつかずに囁《ささや》いているらしかった。それに答える七之助の声も低いので、どっちの話も半七の耳には聴き取れなかったが、それでも壁越しに耳を引き立てていると、七之助は泣いているらしく、時々は洟《はな》をすするような声が洩れた。
「そんな気の弱いことを云わないでさ。早く三ちゃんのところへ行って相談しておいでよ。いいえ、もう一と通りのことはわたしが話してあるんだから」と、お初は小声に力を籠《こ》めて、なにか切《しき》りに七之助に勧めているらしかった。
「さあ、早く行っておいでよ。じれったい人だねえ」と、お初は渋っている七之助の手を取って、曳き出すようにして表へ追いやった。
 七之助は黙って出て行ったらしく、重そうな草鞋の音が路地の外へだんだんに遠くなった。それを見送って、お初は自分の家へはいろうとすると、半七は空家の中から不意に声をかけた。
「おかみさん」
 お初はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として立ちすくんだ。空家の戸をあけてぬっ[#「ぬっ」に傍点]と出て来た半七の顔を見た時に、彼女の顔はもう灰色に変っていた。
「外じゃあ話ができねえ。まあ、ちょいと此処へはいってくんねえ」と、半七は先に立って猫婆の家へはいった。お初も無言でついて来た。
「おかみさん。お前はわたしの商売を知っているのかえ」と、半七はまず訊いた。
「いいえ」と、お初は微かに答えた。
「おれの身分は知らねえでも、熊の野郎が湯屋のほかに商売をもっていることは知っているだろう。いや、知っているはずだ。お前の亭主はあの熊と昵近《ちかづき》だというじゃあねえか。まあ、それはそれとして、お前は今の魚商《さかなや》と何をこそこそ話していたんだ」
 お初は俯向いて立っていた。
「いや、隠しても知っている。おめえはあの魚商に知恵をつけて、隣り町の三吉のところへ相談に行けと云っていたろう。さっきも熊蔵が云った通り、その晩にあの七之助が天秤棒でおふくろをなぐり殺した。それをおめえは知っていながら、あいつを庇《かば》って三吉のところへ逃がしてやった。三吉がまた好い加減なことを云って白らばっくれて七之助を引っ張って来た。さあ、どうだ。この占《うらな》いがはずれたら銭は取らねえ。長屋じゅうの者はそれで誤魔化されるか知らねえが、おれ達が素直にそれを承知するんじゃあねえ。七之助は勿論のことだが、一緒になって芝居を打った三吉もお前も同類だ。片っ端から数珠《じゅず》つなぎにするからそう思ってくれ」
 嵩にかかって、嚇されたお初はわっ[#「わっ」に傍点]と泣き出した。かれは土間に坐って、堪忍してくれと拝んだ。
「次第によったら堪忍してやるめえものでもねえが、お慈悲が願いたければ真っ直ぐに白状しろ。どうだ、おれが睨んだに相違あるめえ。おめえと三吉とが同腹《ぐる》になって、七之助の兇状を庇っているんだろう」
「恐れ入りました」と、お初はふるえながら土に手をついた。
「恐れ入ったら正直に云ってくれ」と、半七は声をやわらげた。「そこで、あの七之助はなぜおふくろを殺したんだ。親孝行だというから、最初から巧んだ仕事じゃあるめえが、なにか喧嘩でもしたのか」
「おふくろさんが猫になったんです」と、お初は思い出しても慄然《ぞっ》とするというように肩をすくめた。
 半七は笑いながら眉を寄せた。
「ふむう。猫婆が猫になった……。それも何か芝居の筋書じゃあねえか」
「いいえ。これはほんとうで、嘘も詐《いつわ》りも申し上げません。ここの家のおまきさんはまったく猫になったんです。その時にはわたくしもぞっ[#「ぞっ」に傍点]としました」
 恐怖におののいている其の声にも顔色にも、詐りを包んでいるらしくないのは、多年の経験で半七にもよく判った。かれも釣り込まれてまじめになった。
「じゃあ、おまえもここの婆さんが猫になったのを見たのか」
 確かに見たとお初は云った。
「それがこういう訳なんです。おまきさんの家に猫がたくさん飼ってある時分には、その猫に喰べさせるんだと云って、七之助さんは商売物のお魚《さかな》を毎日幾|尾《ひき》ずつか残して、家へ帰っていたんです。そのうちに猫はみんな芝浦の海へほうり込まれてしまって、家には一匹もいなくなったんですけれど、おふくろさんはやっぱり今まで通りに魚を持って帰れと云うんだそうです。七之助さんはおとなしいから何でも素直にあいあいと云っていたんですけれど、良人《うちのひと》がそれを聞きまして、そんな馬鹿な話はない、家にいもしない猫に高価《たか》い魚をたくさん持って来るには及ばないから、もう止した方がいいと七之助さんに意見しました」
「おふくろはその魚をどうしたんだろう」
「それは七之助さんにも判らないんだそうです。なんでも台所の戸棚のなかへ入れて置くと、あしたの朝までにはみんな失《なく》なってしまうんだそうで……。どういうわけだか判らないと云って、七之助さんも不思議がっているので、良人が意地をつけて、物は試しだ、魚を持たずに一度帰ってみろ、おふくろがどうするかと……。七之助さんもとうとうその気になったと見えて、このあいだの夕方、神明様の御祭礼《おまつり》の済んだ明くる日の夕方に、わざと盤台を空《から》にして帰って来たんです。わたくしも丁度そのときに買物に行って、帰りに路地の角で逢ったもんですから、七之助さんと一緒に路地へはいって来て、すぐに別れればよかったんですが、きょうは盤台が空になっているからおふくろさんがどうするかと思って、門口《かどぐち》に立ってそっと覗いていると、七之助さんは土間にはいって盤台を卸しました。すると、おまきさんが奥から出て来て……。すぐに盤台の方をじろりと見て……おや、きょうはなんにも持って来なかったのかいと、こう云ったときに、おまきさんの顔が……。耳が押っ立って、眼が光って、口が裂けて……。まるで猫のようになってしまったんです」
 その恐ろしい猫の顔が今でも覗いているかのように、お初は薄暗い奥を透かして息をのみ込
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