ことがあっても、それだけではまだ飼主に対して苦情を持ち込む有力の理由とは認められなかった。併したくさんの動物は決して狭い家の中にばかりおとなしく竦《すく》んではいなかった。彼等はそこらへのそのそ這い出して、近所隣りの台所をあらした。おまき婆さんが幾ら十分の食い物を宛《あて》がって置いても、彼等はやはり盗み食いを止めなかった。
 こうなると、苦情の理由が立派に成り立って、近所からたびたびねじ込まれた。その都度おまきも詫びた。七之助もあやまった。併しおまきの家のなかの猫の啼き声はやはり絶えないので、誰が云い出したとも無しに、彼女は近所の口の悪い人達から猫婆という綽名《あだな》を与えられてしまった。本人のおまきはともあれ、七之助は母の異名を聴くたびにいやな思いをさせられるに相違なかった。が、おとなしい彼は母を諫《いさ》めることも出来なかった。無論、近所の人と争うことも出来なかった。彼は畜生の群れと一緒に寝て起きて、黙っておとなしく稼いでいた。
 この頃は七之助が商売から帰ってくる時に、その盤台にかならず幾|尾《ひき》かの魚《さかな》が残っているのを、近所の人達が不思議に思った。
「七之助さん、きょうもあぶれかい」と、ある人が訊いた。
「いいえ、これは家《うち》の猫に持って帰るんです」と、七之助はすこし極りが悪そうに答えた。河岸《かし》から仕入れて来た魚をみんな売ってしまう訳には行かない。飼い猫の餌食《えじき》として必ず幾尾かを残して帰るように、母から云い付けられていると彼は話した。
「この高い魚をみんな猫の餌食に……。あの婆さんも勿体ねえことをするな」と、聴いた人もおどろいた。その噂がまた近所に広まった。
「あの息子もおとなしいから、おふくろの云うことを何でも素直にきいているんだろうが、この頃の高い魚を毎日あれほどずつ売り残して来ちゃあ、いくら稼いでも追いつくめえ。あの婆さんは生みの息子より畜生の方が可愛いのかしら。因果なことだ」
 近所の人達は孝行な七之助に同情した。そうして、その反動として誰も彼も猫婆のおまきに反感をもつようになった。近所から嫌われていたおまきが此の頃だんだんと近所から憎まれるようになって来た。猫はいよいよ其の反感を挑発するように、この頃はいたずらが烈しくなって、どこの家でも遠慮なしにはいり込んだ。障子を破られた家もあった。魚を盗まれた家もあった。その啼き声が夜昼そうぞうしいと云うので、南隣りの人はとうとう引っ越してしまった。北隣りには大工の若い夫婦が住んでいるが、その女房も隣りの猫にはあぐね果てて、どこかへ引っ越したいと口癖のように云っていた。
「何とかしてあの猫を追い払ってしまおうじゃないか。息子も可哀そうだし、近所も迷惑だ」
 長屋のひとりが堪忍袋の緒を切ってこう云い出すと、長屋一同もすぐに同意した。直接に猫婆に談判しても容易に埓があくまいと思ったので、月番《つきばん》の者が家主《いえぬし》のところへ行って其の事情を訴えて、おまきが素直に猫を追いはらえばよし、さもなければ店立《たなだて》を食わしてくれと頼んだ。家主ももちろん猫婆の味方ではなかった。早速おまきを呼びつけて、長屋じゅうの者が迷惑するから、お前の家の飼い猫をみんな追い出してしまえと命令した。もし不承知ならば即刻に店を明け渡して、どこへでも勝手に立ち退けと云った。
 家主の威光におされて、おまきは素直に承知した。
「いろいろの御手数をかけて恐れ入りました。猫は早速追い出します」
 しかし今まで可愛がって育てていたものを、自分が手ずから捨てにゆくには忍びないから、御迷惑でも御近所の人たちにお願い申して、どこかへ捨てて来て貰いたいと彼女は嘆いた。それも無理はないと思ったので、家主はそのことを長屋の者に伝えると、おまきの隣りに住んでいる彼《か》の大工のほかに二人の男が連れ立って、おまきの家へ猫を受け取りに行った。猫は先頃子を生んだので、大小あわせて二十匹になっていた。
「どうも御苦労さまでございます。では、なにぶんお願い申します」
 おまきはさのみ未練らしい顔を見せないで、家じゅうの猫を呼びあつめて三人に渡した。その猫どもを三つに分けて、ある者は炭の空き俵に押し込んだ。ある者は大風呂敷に包んだ。めいめいがそれを小脇に引っかかえて路地を出てゆくうしろ姿を、おまきは見送ってニヤリと笑った。
「わたしは見ていましたけれど、その時の笑い顔は実に凄うござんしたよ」と、大工の女房のお初があとで近所の人達にそっと話した。
 猫をかかえた三人は思い思いの方角へ行って、なるべく寂しい場所を選んで捨てて来た。
「まずこれでいい」
 そう云って、長屋の平和を祝していた人達は、そのあくる朝、大工の女房の報告におどろかされた。
「隣りの猫はいつの間にか帰って来たんですよ。夜なかに
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