っ越して来た家はだいぶ傷《いた》んでいるので、こっちの棟梁に手入れをして貰いたいと云った。その尾について、半七も丁寧に云った。
「何分こっちへ越してまいりましたばかりで、御近所の大工さんにだれもお馴染みがないもんですから、熊さんに頼んでこちらへお願いに出ましたので……」
「左様でございましたか。お役には立ちますまいが、この後《のち》ともに何分よろしくお願い申します」
得意場が一軒ふえることと思って、お初は笑顔をつくって如才なく挨拶した。二人を無理に内に招じ入れて、煙草盆や茶などを出した。外の雨の音はまだ止まなかった。昼でも薄暗い台所では鼠の駈けまわる音がときどきに聞えた。
「お宅も鼠が出ますねえ」と、半七は何気なく云った。
「御覧の通りの古い家だもんですから、鼠があばれて困ります」と、お初は台所を見返って云った。
「猫でもお飼いになっては……」
「ええ」と、お初はあいまいな返事をしていた。彼女の顔には暗い影がさした。
「猫といえば、隣りの婆さんの家はどうしましたえ」と、熊蔵は横合いから口を出した。「息子は相変らず精出して稼いでいるんですか」
「ええ、あの人は感心によく稼ぎますよ」
「こりゃあ此処だけの話だが……」と、熊蔵は声を低めた。「なんだか表町の方では変な噂をしているようですが……」
「へえ、そうでございますか」
お初の顔色がまた変った。
「息子が天秤棒でおふくろをなぐり殺したんだという噂で……」
「まあ」
お初は眼の色まで変えて、半七と熊蔵との顔を見くらべるように窺っていた。
「おい、おい、そんな詰まらないことをうっかり云わない方がいいぜ」と、半七は制した。「ほかの事と違って、親殺しだ。一つ間違った日にゃあ本人は勿論のこと、かかり合いの人間はみんな飛んだ目に逢わなけりゃあならない。滅多なことを云うもんじゃあないよ」
眼で知らされて、熊蔵はあわてたように口を結んだ。お初も急に黙ってしまった。一座が少し白らけたので、半七はそれを機《しお》に座を起った。
「どうもお邪魔をしました。きょうはこんな天気だから棟梁はお内かと思って来たんですが、それじゃあ又出直して伺います」
お初は半七の家を訊いて、亭主が帰ったら直ぐにこちらから伺わせますと云ったが、半七はあしたまた来るからそれには及ばないと断わって別れた。
「あの女房がはじめて猫婆の死骸を見付けたんだな」と、路
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