はさすがに武芸のたしなみがあるらしく、相手を土の上にねじ伏せて、雪駄《せった》をぬいで続け打ちになぐり付けた。
「河童野郎。八丁堀へでも、葛西《かさい》の源兵衛堀へでも勝手に行け。おれ達は渡り奉公の人間だ。万一|事《こと》が露《ば》れたところで、あとは野となれ、屋敷を追ん出ればそれで済むんだ。口惜《くや》しけりゃあどうともしろ」
 着物の泥をはたいて、平助は悠々と立ち去ってしまった。なぐられて、毒突かれて、提重の色男は意気地もなく其処に倒れていた。
「大哥《あにい》、ひどく器量が悪いじゃあねえか」と、半七は溝から這いあがって声をかけた。
「なにを云やあがるんだ。うぬの知ったことじゃあねえ」と、又蔵は面を膨《ふく》らせて這い起きた。「ぐずぐず云やあがると今度は汝《うぬ》が相手だぞ」
「まあ、いいや。そんなにむきになるな」と、半七は笑った。「どうだい、縁喜《えんぎ》直しに一杯飲もうじゃねえか。火消し屋敷で一度や二度は逢ったこともある。まんざら知らねえ顔でもねえ」
 手拭をとった半七の顔を、月の光りに透かしてみて又蔵はおどろいた。
「や、三河町か」

     四

 あくる朝、半七は八丁堀の槇原の屋敷へゆくと、けさも杉野の用人の角右衛門が来ていた。忠義一途の用人は、きのう中にすこしは何かの手がかりは付いたかと問い合わせに来たのであった。あまり性急だとは思ったが、相手がまじめであるだけに、槇原もまじめで云い訳をしているところへ、丁度に半七が顔を出した。
「御用人もしきりに心配しておいでなさる。どうだ、少しは当りが付いたか」と、槇原はすぐに訊いた。
「へえ。もうすっかり判りました。御安心なさいまし」と、半七は無雑作《むぞうさ》に答えた。
「判りましたか」と、角右衛門は膝を乗り出した。「そうして、若殿はどこに……」
「お屋敷の中に……」
 角右衛門は口をあいて相手の顔をながめていた。槇原も眉を寄せた。
「なに、屋敷の中にいる。それは又どういう訳だ」
「お屋敷の中小姓に山崎平助という人がございましょう。このあいだの朝、若殿様のお供をして行った人です。その人はお屋敷のお長屋に住まっている筈ですが……」
 角右衛門は機械的にうなずいた。
「そのお長屋の戸棚のなかに若殿様は隠れておいでの筈です。三度の喫《あが》り物は、提重のお安という女が重箱に忍ばせて、外から毎日運んでいるそうです」と、半七は説明した。
 併しその説明だけでは、二人の腑に落ちなかった。槇原は又きいた。
「なぜ又、若殿をそんなところに隠して置くんだろう。一体、誰がそんなことを考えたんだろう」
「それは奥様のお指図のように聞いています」
「奥様……」と、角右衛門はいよいよ呆れた。
 すべてが余りに案外なので、いろいろの経験に富んでいる槇原も煙《けむ》にまかれたらしく、大きい眼を見はったままで木偶《でく》のように黙っていた。半七はつづいて説明した。
「まことに失礼でございますが、お屋敷は朝顔屋敷……朝顔を大層お嫌いなさるように承って居ります。その屋敷のお庭にことしの夏、白い朝顔の花が咲きましたそうで……」
 角右衛門は苦《にが》い顔をして又うなずいた。
「つまりその朝顔の花が今度の事件の起りでございます」と、半七は云った。
 朝顔の花が咲けば必ず家に凶事があるというので、屋敷の人達も顔を陰らせた。主人はあまりそんなことに頓着しない気質であるので、ただ笑って済ませてしまったが、奥方はひどくそれを気に病んで、なにかの禍いがなければよいと明け暮れに案じているうちに、先月の末、些細なことから奥方の神経をおびやかすような一つの事件が出来《しゅったい》した。
 ある日のことである。若殿大三郎が中間の又蔵を供に連れて、赤坂の親類をたずねた。その帰りに自分の屋敷の近所まで来ると、そこに三四十俵から五六十俵取りぐらいの小さい御家人たちの組屋敷があって、十二三を頭《かしら》に四、五人の子供が往来に遊んでいた。遊びに夢中になっている一人の子供は、駈け出すはずみに大三郎に突き当って、ふたりは折り重なって路傍に倒れた。もともと悪意でないことは判っていたが、供の又蔵は主人が突き倒されたのと、相手が小身者《しょうしんもの》の子供であるという軽侮とで、その子供の襟髪を引っ掴んでいきなりぽかりぽかりなぐりつけた。これは無論に又蔵の仕損じであった。かれ等はともかくも武士の子である。理非も糺《ただ》さずにみだりに人を打擲《ちょうちゃく》するとは何事だといきまいた。もう一つには、こっちが相手を小身者と侮ると同時に、相手の方では大身に対する一種の妬みと僻《ひが》みがあった。彼等はすぐに組中の子供を呼びあつめて、めいめい木刀や竹刀《しない》を持ち出して、およそ十五六人が鬨《とき》を作って追って来た。その中には、かれらの兄らしい
前へ 次へ
全9ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング