[#「鐙」は底本では「鎧」]踏ん張り精いっぱいというところだ。一体このあいだの五両はどうした」
「火消し屋敷へ行ってみんな取られてしまいましたよ」
「博奕は止せよ。路端《みちばた》の竹の子で、身の皮を剥《む》かれるばかりだ。馬鹿野郎」
「いやもう、一言もありません。叱られながらこんなことを云っちゃあ何ですが、お前さんも御承知のお安の阿魔、あいつにこの間から春着をねだられているんで、わっしも男だ、なんとか工面《くめん》してやらなけりゃあ」
「ふふん、立派な男だ」と、平助はあざ笑った。「春着でも仕着《しきせ》でもこしらえてやるがいいじゃあねえか」
「だから、その、なんとか片棒かついでお貰い申したいので……」
「ありがたい役だな。おれはまあ御免だ。おれだって知行取りじゃあねえ。物前《ものまえ》に人の面倒を見ていられるもんか」
「お前さんにどうにかしてくれと云うんじゃあねえ。お前さんから奥様にお願い申して……」
「奥様にだってたびたび云われるものか、このあいだの一件は十両で仕切られているんだ。それを貴様と俺とが山分けにしたんだから、もう云い分はねえ筈だ」
「云い分じゃあねえ。頼むんですよ」と、又蔵はしつこく口説いた。「まあ、何とかしておくんなせえ。女に責められて全く遣り切れねえんだから。お前さんだって、まんざら覚えのねえことでもありますめえ。ちっとは思いやりがあっても好いじゃありませんか」
相手が黙って取り合わないので、又蔵も焦《じ》れ出したらしい。酔っている彼の調子は少し暴《あら》くなった。
「じゃあ、どうしてもいけねえんですかえ。もうこうなりゃ仕方がねえ。御用人がけさ八丁堀へ出かけたということだから、わっしもこれから八丁堀へ行って、若殿様はこういうところに……」
「嚇かすな」と、平助はまたあざ笑った。「両国の百日《おででこ》芝居で覚えて来やあがって、乙な啖呵を切りゃあがるな。そんな文句はほか様へ行って申し上げろ。お気の毒だが辻番が違うぞ」
まだ宵の口ではあるが、世間がひっそりと鎮まっているので、こうした押し問答が手に取るように半七の耳に伝わった。いずれこの納まりは平穏《おだやか》に済むまいと見ていると、それから二人のあいだに尖った声が交換されて、しまいには二つの影がもつれ合って動き出した。口では敵《かな》わない又蔵がとうとう腕ずくの勝負になったのである。それでも平助
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