、次郎八という男の家を探し当ててその話をして聞かせると、夫婦ともにびっくりしていました。それからすぐに次郎八をつれて行って、黒沼の屋敷の用人に引きあわせると、用人も大安心で死骸を引き渡してくれました。死骸はたしかに次郎八の娘で、もう一と足遅いと寺へ送られてしまうところでした。勿論、普通の探索物と違いますから、この一件ばかりは確かにこうと突き留めるわけには行きませんが、どうもこれよりほかには鑑定の付けようがないので、娘は鷲にさらわれたものと決まってしまいました。これは広重の絵のおかげで、なにが人間の助けになるか判りません。その広重は大コロリで、その年の秋に死にました」

     三

 こんな話をしているうちに、二人はいつか三囲《みめぐり》を通りすぎていた。堤《どて》はもう葉桜になって、日曜日でも雑沓していないのが、わたし達に取っては却って仕合わせであった。わたしは息つぎに巻煙草入れを袂から探り出して、そのころ流行った常磐《ときわ》という紙巻に火をつけて半七老人に一本すすめると、老人は丁寧に会釈して受け取って、なんだかきな臭いというような顔をしながら口のさきでふかしていた。
「どこかで休みましょうか」と、わたしは気の毒になって云った。
「そうですね」
 一軒の掛茶屋を見つけて、二人は腰をおろした。花時をすぎているので、ほかには一人の客も見えなかった。老人は筒ざしの煙草入れをとり出して、煙管《きせる》で旨そうに一服すった。毛虫を吹き落されるのを恐れながらも、わたしは日ざかりの梢を渡ってくる川風をこころよく受けた。わたしの額はすこし汗ばんでいた。
「むかしはここらに河獺《かわうそ》が出たそうですね」
「出ましたよ」と、老人はうなずいた。「河獺も出れば、狐も狸も出る。向島というと、誰でもすぐに芝居がかりに考えて清元か常磐津の出語りで、道行《みちゆき》や心中ばかり流行っていた粋《いき》な舞台のように思うんですが、実際はなかなかそうばかり行きません。夜なんぞはずいぶん薄気味の悪いところでしたよ」
「ほんとうに河獺なんぞが出ては困りますね」
「あいつは全く悪いいたずらをしますからね」
 なにを問いかけても、老人は快く相手になってくれる。一体が話し好きであるのと、もう一つには、若いものを可愛がるという柔かい心もまじっているらしい。彼がしばしば自分の過去を語るのは、あえて手柄自慢をするというわけではない。聴く人が喜べば、自分も共によろこんで、いつまでも倦《う》まずに語るのである。そこでこの場合、老人はどうしても河獺について何か語らなければならないことになった。
「つかんことを申し上げるようですが、東京になってからひどく減《へ》ったものは、狐狸や河獺ですね。狐や狸は云うまでもありませんが、河獺もこの頃では滅多《めった》に見られなくなってしまいました。この向島や千住ばかりじゃありません。以前は少し大きい溝川《どぶがわ》のようなところにはきっと河獺が棲んでいたもので、現に愛宕下の桜川、あんなところにも巣を作っていて、ときどきに人を嚇《おど》かしたりしたもんです。河童《かっぱ》がどうのこうのというのは大抵この河獺の奴のいたずらですよ。これもその河獺のお話です」

 弘化四年の九月のことで、秋の雨の二、三日ふりつづいた暗い晩であった。夜ももう五ツ(午後八時)に近いと思うころに、本所|中《なか》の郷《ごう》瓦町《かわらまち》の荒物屋の店障子をあわただしく明けて、ころげ込むようにはいって来た男があった。商売物の蝋燭でも買いに来たのかと思うと、男は息をはずませて水をくれと云った。うす暗い灯の影でその顔を一と目見て、女房はきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と声をあげた。その男は額から頬から、頸筋まで一面になまなましい血を噴き出して、両方の鬢は掻きむしられたように乱れていた。散らし髪で血だらけの顔――それを表の暗やみから不意に突き出された時に、女房のおどろくのも無理はなかった。その声を聞いて奥から亭主も出て来た。
「まあ、どうしたんです」と、さすがは男だけに、彼はまず声をかけた。
「なんだか知りませんが、源森《げんもり》橋のそばを通ると、暗い中から飛び出して来て、傘の上からこんな目に逢いました」
 それを聞いて、亭主も女房も少し落ち着いた。
「それはきっと河獺です」と、亭主は云った「ここらには悪い河獺がいて、ときどきにいたずらをするんです。こういう雨のふる晩には、よくやられます。傘の上へ飛びあがって顔を引っ掻いたんでしょうよ」
「そうかも知れません。わたしはもう夢中でなんにも判りませんでした」
 親切な夫婦はすぐに水を汲んで来て、男の顔の血を洗ってやった。ありあわせた傷薬などを塗ってやった。男はもう五十を二つ三つも越しているかと思われる町人で、その服装《みなり》も卑し
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