とも兄妹の人情というのでしょうか、まだふところに金のある間に自分の菩提寺へ久し振りでたずねて行って、妹の回向料の積りで何となしに五両の金を納めて行ったんです。それから草加《そうか》の在の方へ行って、ひと月ばかり隠れていたんですが、江戸者が麦飯を食っちゃあいられませんから、又こっそりと江戸へ帰って来て、お時から幾らかずつの小遣い[#「小遣い」は底本では「小遺い」]を強請《いたぶ》って、そこらをうろ付いているうちに、田町の重兵衛に眼をつけられて、お時と情交《わけ》のあることも知れてしまったんです。重兵衛は自分の縄張り内ですから辰伊勢に引き合いを付けるのも気の毒だと思って、早くお暇を出してしまえと内々で教えてやったんですが、それが却って仇となって……」
「お時は素直に出て行かなかったんですか」
「そりゃあ素直に動きませんや。永太郎と誰袖の急所を掴んでいるんですもの、ここで少なくも二百と三百と纒まった金を貰わなければ、おとなしく出て行くわけにはゆかないと云って、しきりに二人をおどかしていたんですが、永太郎も部屋住みの身の上で、とてもそんな金が出来る筈はなし、誰袖もこれまでに度々お時に強請《ゆす》られているんですから、身の皮を剥いでも工面《くめん》は付かず、二人ともに弱り抜いているうちに、なんにも知らない辰伊勢のおふくろが無暗に引き合いを怖がって、一日も早くお時に暇を出そうとする。お時は情夫の寅松を加勢に頼んで、自分たちの云い条を素直に肯《き》いてくれなければ、おきん殺しの一条を恐れながらと訴え出ると、蔭へまわって永太郎と誰袖とを脅迫している。もうどうにもこうにもしようがなくなって、誰袖は永太郎と一緒に死のうと覚悟を決めた。それをお時が薄々感付いたので、二人を心中させては玉無しになるから、その前に寅松に意地をつけて、いよいよ辰伊勢の帳場へ坐り込ませようというところを、わたくしにみんな引き揚げられてしまったんです。誰袖は所詮助からない命ですから、いっそ心中した方がましだったかも知れませんが、永太郎はまさかに死罪にもなりますまいから、もう一と足のところで可哀そうなことをしました」
これで辰伊勢の寮の秘密もすっかり判ったが、まだ一つの疑いがわたしの胸に残っていた。
「すると、その徳寿とかいう按摩はなんにも知らなかったんですね」
「徳寿という奴は正直者で、誰袖の文使いをしたほかには、全くなんにも知らなかったようです」
「その徳寿が辰伊勢の寮へ行くことを、なぜそんなにいやがったんでしょう。誰袖のそばには何か坐っているなんて、めくらの癖にどうして感付いたんでしょう」
「さあ、それは判りませんね。そういうむずかしい理窟はあなた方のほうがよくご存じでしょう。辰伊勢の寮の床下にはおきんの死骸が埋まっていたんです」
半七老人はその以上に註釈を加えてくれなかった。わたしが、この物語を「春の雪解」と題したのは単に半七老人の口真似をしただけのことで、事実はかの直侍と三千歳との単純な情話よりも、もっと深い恐ろしいもののように思われてならない。
底本:「時代推理小説 半七捕物帳(一)」光文社文庫、光文社
1985(昭和60)年11月20日初版1刷発行
入力:tat_suki
校正:おのしげひこ
1999年6月27日公開
2004年2月29日修正
青空文庫作成ファイル:
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