を嬉しそうに嗅《か》いでいた。
 蕎麦屋の女房は門《かど》の行燈に灯を入れると、その薄暗い灯かげに照らされて、花びらのような大きい雪が重そうにぼたぼた落ちているのが暖簾《のれん》越しに見えた。一本の酒をやがて半分ほど飲んだ頃に、半七は話し出した。
「徳寿さん。おまえが今あすこで立ち話をしていたのは何処の寮だえ」
「旦那はあの辺においでなさいましたか。ちっとも存じませんで。はははは。いえ、あすこは廓の辰伊勢という家《うち》の寮でございますよ」
「先方じゃあ頻りに呼び込もうとするのを、おまえは無暗に逃げていたじゃあねえか。廓の寮ならば好いお得意様だ」
「ところが、旦那。どうもあすこは工合《ぐあい》が悪いんでしてね。いえ、別に代をくれないの何のという訳じゃないんですが、なんですかこう、気味の悪いような家でしてね」
 半七は飲みかけた猪口《ちょこ》をおいた。
「気味の悪い家……。そりゃあどういうんだね。まさかに化けものが出る訳でもあるめえ」
「へえ、別にそんな噂もないんですが、わたくしはどうも気味が悪うございまして……。あすこで呼ばれると何だがぞっ[#「ぞっ」に傍点]として、逃げるように断わって来るんですよ」と、徳寿は鼻の頭の汗を手の甲で拭きながら云った。
「変な話だね」と、半七は笑った。「どういうわけで気味が悪いんだろう。判らねえな」
「わたくしにも判りません。ただ何となしに襟もとから水を浴びせられたように、からだ中がぞっ[#「ぞっ」に傍点]とするんです。眼が見えませんからなんにも判りませんけれど、なにかこう、おかしなものが傍にでも坐っているような工合で……。まったく変でございますよ」
「一体あの寮には誰が来ているんだね」
「誰袖《たがそで》さんという花魁でございます。二十一二の勤め盛りで、凄いような美《い》い女だそうでございますが、去年の霜月頃から用事をつけて、あの寮へ出養生に来ているんでございますよ」
「暮から春へかけて店を引いているようじゃあ、よっぽど悪いんだろうね」
 それ程でもないらしいと徳寿は云った。勿論、盲人の彼には詳しい様子もわからないが、いわゆるぶらぶら病いで寝たり起きたりしているらしいとの事であった。それにしても、その辰伊勢の寮がなぜそれほどに気味が悪いというのか、その仔細が半七には判らなかった。徳寿がもうたくさんだと辞退するのを、無理に蕎麦の代りを取
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