ん中の抽斗《ひきだし》をあけようとすると、奥の方に何かつかえているようで素直にあかないんです。変だと思って無理にこじあけると、奥の方に何か書いた紙きれが挟まっていたので、引っ張り出して読んでみると、それが娘の書置なんです。走り書きの短い手紙で、よんどころない訳があって死にますから先立つ不孝はゆるしてくださいというようなことが書いてあったので、おふくろはまたびっくりして、すぐにその書置をつかんで私のところへ飛んで来ました。娘の字はわたくしも知っています。おふくろも娘の書いたものに相違ないと云うんです。して見ると、あのおみよは何か云うに云われない仔細があって、自分で首を縊《くく》って死んだものと見えます。そのことは取りあえず自身番の方へもお届け申して置きましたが、けさも長五郎親分が見えましたから詳しく申し上げました」
「そりゃあ案外な事になったね。そうして、長五郎はなんと云いましたえ」と、半七は訊いた。
「親分も首をかしげていましたが、自滅じゃあどうも仕方がないと……」
「そうさ。自滅じゃあ詮議にもならねえ」
それからおみよが平素《ふだん》の行状などを少しばかり訊いて、半七はここを出た。しかし彼はまだ腑《ふ》に落ちなかった。たといおみよが自分で喉を絞めたとしても、誰がその死骸を行儀よく寝かして置いたのであろう。長五郎はどう考えているか知らないが、単に自滅というだけで此の事件をこのままに葬ってしまうのは、ちっと詮議が足りないように思われた。それにしても、おみよの書置が偽筆でない以上、かれが自殺を企てたのは事実である。若い女はなぜ自分で死に急ぎをしたのか、半七はその仔細をいろいろに考えた末に、ふと思い付いたことがあった。彼はそのまま神田の家へ帰って、松吉のたよりを待っていると、それから五日目の午すぎに、松吉がきまりの悪そうな顔を出した。
「親分、どうもいけませんよ。あれから毎日張り込んでいるんですけれど、野郎は影も形も見せないんです。草鞋を穿いたんじゃありますめえか」
松吉の報告によると、その古着屋も師匠の家もみな平屋の狭い間取りで、どこにも隠れているような場所がありそうもない。古着屋の店にもおふくろが毎日坐っている。師匠の家でも毎日稽古をしている。ほかには何の変ったことはないと云った。
「師匠の家じゃあ相変わらず稽古をしているんだな。あそこの家の月浚《つきざら》いはいつだ」と、半七は訊いた。
「毎月|二十日《はつか》だそうですが、今月は師匠が風邪を引いたとかいうんで休みましたよ」
「二十日というとおとといだな」と、半七は少しかんがえた。「あの師匠、どんなものを食っている。魚屋も八百屋も出入りするんだろう。この二、三日の間、どんなものを買った」
それは松吉も一々調べていなかったが、自分の知っているだけのことを話した。そうして、おとといの午《ひる》には近所のうなぎ屋に一人前の泥鰌《どじょう》鍋をあつらえた。きのうの午には魚屋に刺身を作らせたと云った。
「それだけのことが判っていりゃあ申し分はねえじゃあねえか」と、半七は叱るように云った。「野郎は師匠の家に隠れているんだ。あたりめえよ。いくら新宿をそばに控えているからといって、今どきの場末の稽古師匠が毎日|店屋物《てんやもの》を取ったり、刺身を食ったり、そんなに贅沢ができる筈がねえ。可愛い男を忍ばしてあるから、巾着《きんちゃく》の底を掃《はた》いてせいぜいの御馳走をしているんだ。おまけに毎月の書き入れにしている月浚いさえも休んでいるというのが、何よりの証拠だ。師匠の家にはお浚いの床《ゆか》があるだろう」
師匠の家は四畳半と六畳の二間で、奥の横六畳に二間の床があると松吉は云った。床の下は戸棚になっているのが普通である。その戸棚のなかに男を隠まってあるものと半七は鑑定した。
「さあ、松。すぐ一緒に行こう。彼らは銭がなくなると、また何をしでかすか判ったもんじゃあねえ」
二人は新宿の北裏へ行った。
四
「おや、三河町の親分さん。先日はどうも御厄介になりました。その後まだお礼にも伺いませんで、なにしろ貧乏暇無しの上に、少し身体が悪かったもんでございますから。ほほほほほ」
杵屋お登久はべんべら物の半纏《はんてん》の襟を揺り直しながら笑い顔をして半七をむかえた。彼女は松吉が裏口に忍んでいるのを知らないらしかった。半七は奥へ通されて、小さい置床《おきどこ》の前に坐った。寄付《よりつき》の四畳半には長火鉢や箪笥や茶箪笥が列んでいて、奥の六畳が稽古場になっているらしく、そこには稽古用の本箱や三味線が置いてあった。八ツ(午後二時)少し前で、手習い子もまだ帰って来ない時刻のせいか、弟子は一人も待っていなかった。
「妹はどうしたね」
「あの、きょうも御参詣にまいりました」
「鬼子母神様かえ」と、半七はお登久の持って来た桜湯をのみながら苦笑いをした。「なかなか御信心だねえ。だが、鬼子母神様を拝むより俺を拝んだ方がいいかも知れねえ。千次郎のたよりはすっかり判ったぜ」
お登久は眉を少し動かしたが、やがて調子をあわせるように、華《はな》やかに笑った。
「ほんとうにそうでございますね。親分さんにお願い申して置けば、それでもう安心なんでございますけれど……」
「冗談じゃねえ。ほんとうにたよりが判ったんだ。それを教えてやろうと思って、わざわざ下町からのぼって来たんだぜ。師匠、だれもほかにいやあしめえね」
「はあ」と、お登久はからだを固くして半七の顔を見つめていた。
「師匠の前じゃあちっと云いにくいことだが、千次郎は市ヶ谷合羽坂下の酒屋の裏にいるおみよという若い女と、近所の質屋に奉公している時分から引っからんでいたんだ。お前がふだんから気をまわしている相手というのはその女だ。ところで、そこにどういう因縁があったか知らねえが、千次郎とおみよは心中することになって、男はまず女を絞め殺した」
「まあ」と、お登久の顔は真っ蒼になった。「ほんとうに二人で死ぬ気だったんでしょうか」
「ほんとうも嘘もねえ。真剣に死ぬ気だったんだろう。だが、女の死ぬのを見ると、男は薄情なものさ。急に気が変って逃げ出して、それから何処かに隠れてしまったんだ。死んだ女は好い面《つら》の皮で、さぞ怨んでいるだろうよ」
「二人が心中だという確かな証拠があるんでしょうか」
「女の書置が見付かったから間違いもあるめえ」
云いかけてふと気がつくと、お登久の涼しい眼には涙がいっぱいに溜っていた。
「その女と心中までする位じゃあ、つまり私は欺されていたんですね」
「師匠にゃあ気の毒だが、煎じつめると、まあそんな理窟にもなるようだね」
「あたしはなぜこんなに馬鹿なんでしょうね」
もう堪まらなくなったらしい。お登久はじれるように身をふるわせて、襦袢の袖口を眼にあてた。裏口で犬が頻りに吠え付くのを、松吉は小声で追っているらしかったが、そんなことはお登久の耳にはちっともはいらないらしかった。彼女はやがて眼を拭きながら訊いた。
「それで、千さんの居どこが判ったらどうなるんでしょう」
「相手が死んだ以上は無事に済むわけのものでねえ」
「親分が見つけたら捉《つか》まえますか」
「いやな役だが仕方がねえ」
「じゃあ、すぐに捉まえてください」
お登久はいきなり起ちあがって、床の下の戸棚をがらりとあけると、戸棚の隅には若い男の蒼ざめた顔が見えた。案の通りここに隠れていたなと思う間もなく、お登久は男の手をつかんで戸棚からぐいぐいと引き摺り出した。
「千ちゃん。お前さん、よくもあたしをだましたね。商売上で少し筋の悪い品を買って、飛んだ引き合いを食いそうになったから、ちっとの間どこかへ姿を隠すんだと云うから、一昨々日《さきおととい》からこうして隠まって置いてやると、そりゃあ丸で嘘の皮で、市ヶ谷の女と心中しそこなったんだということを今初めて聞いた。今まで人をさんざんだまして置きながら、またその上にそんな嘘をついて……。あんまり口惜《くや》しいから、あたしはお前を引っ張り出して親分さんに渡してやる。さあ、縛られるとも、牢へ入れられるとも、勝手にするが好い」
くやし涙の眼を瞋《いか》らせて、お登久は男の顔を睨みつけると、彼はその眼を避けるように顔をそむけたが、その方角にはまた半七の眼がひかっているので、彼はもういっそ消えてしまいたいように俯伏して、稜毛《のげ》の逆立った古畳に顔を埋めてしまった。
「もうこうなったら仕方がねえ」と、半七は諭《さと》すように云った。「この芝居ももうこれで大詰めだろう。おい、千次郎。正直に何もかも云ってしまえ。自身番まで引き摺って行って、わざわざ引っぱたくのも忌《いや》だから、ここでみんな聞いてやろうぜ」
「恐れ入れました」と、千次郎はもう生きているような顔色はなかった。
「お前はあのおみよという女と心中したんだろう。女はおめえが絞めたのか」
「親分、それは違います。おみよはわたくしが殺したのじゃございません」
「嘘をつけ。女をだますのとは訳が違うぞ。天下の御用聞きの前で嘘八百をならべ立てると、飛んでもねえことになるぞ。人を見て物をいえ。現におみよの書置があるじゃあねえか」
「おみよの書置には心中とは書いてございません。おみよは自分ひとりで死んだのでございます」と、千次郎はふるえながら訴えた。
半七も少しゆき詰まった。心中というのは自分だけの鑑定で、成程おみよの書置に心中ということは書いてないらしかった。併しおみよとこの千次郎とがどうしても無関係とは思われなかった。
「それじゃあ、てめえはどうしておみよの書置の文句を知っている。おみよの死んだそばにいねえで、それが判る筈がねえ。第一に、おみよが自分一人で死んだということをどうして知っている。訳を云え」と、半七は嵩《かさ》にかかって極めつけた。
「正直に申し上げます」
「むむ。早く申し立てろ」
そばにはお登久が執念深そうな眼をして睨みつけているので、千次郎も少しためらっているらしかったが、半七に催促されて彼はとうとう思い切って白状した。かれは市ヶ谷の質屋に奉公している時から、近所のおみよと不図《ふと》云い交すようになったが、女は武家の持ち物になっているので、万一それが露顕したらどんな祟りを受けるかも知れないという懸念から、二人は用心して、月に二、三度位ずつ雑司ヶ谷の茶屋でこっそり出逢っていた。千次郎が新宿に古着屋の店を持つようになっても、二人の関係はやはり繋がっていた。そのうちに自分の妹が長唄の稽古に通うのが縁となって、千次郎は師匠のお登久とも他人でない関係になってしまった。そうして、お登久の眼を忍んで、むかしの恋人にも逢っていた。
これだけでもやがては面倒の種となりそうなところへ、さらにおそろしい面倒が湧き出しそうになって来た。それは千次郎とおみよとが雑司ヶ谷の茶屋で逢っているところを、大久保の屋敷の者に見つけられたのであった。この前の妾はなにか不埒をはたらいて主人の手討ちに逢ったとかいう噂を聞いているおみよは、根がおとなしい女だけに、もう生きている空もないようにふるえ上がってしまった。彼女は母と一緒に練馬へゆく途中から逃げて帰って、約束の茶屋で千次郎に逢って、自分の秘密が屋敷に知れた以上は、もう生きてはいられないと嘆いた。
その話を聞いて気の小さい千次郎はおびえた。おみよばかりでなく、不義の相手の自分とても或いは屋敷へ引っ立てられて、どんなわざわいに逢うかも知れないと恐れた。しかし彼は女と一緒に死ぬ気にもなれなかった。おみよから心中の話をほのめかされたのを、彼はいろいろに宥《なだ》めすかして、その日の夕方にともかくも市ヶ谷の家へ帰らせたが、なんだか不安心でもあるので、彼は途中から又引っ返しておみよの家へたずねて行くと、もう遅かった。おみよは台所の梁《はり》に麻の葉の帯をかけて縊《くび》れていた。長火鉢のそばに母と自分とに宛てた二通の書置があった。急いだとみえて、どっちも封をしてなかったので、彼は二通ながら披《ひら》いて見た。
あまりの驚きと悲しみとに、千次郎は少時《しば
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