らく》ぼんやりしていたが、やがて気がついておみよの死骸を抱きおろした。その死骸を奥へ運んで頸《くび》にからんでいる帯をといて、北枕に行儀よく横たえて、かれは泣いて拝んだ。母にあてた書置は火鉢のひきだしに入れ、自分にあてた書置は自分のふところに押し込んで、彼も女のそばですぐ縊れて死のうと覚悟したが、ここで一緒に死んではかのお登久に済まないような気がしたので、彼は半分夢中でおみよの帯をかかえながら表へそっとぬけ出した。それからどこをどう歩いたか、かれは死に場所を探しながら帯取りの池へ迷って行った。女の帯で首をくくろうか、それとも池へ身を投げようかと思案しているところへ、あいにくと幾たびか人が通るので、彼は容易に死ぬ機会を見出すことが出来なかった。陰った夜で、空には弱い星が二つ三つ輝いているばかりであった。その星の光を仰いでうっとりと突っ立っているうちに、薄ら寒い春の夜風が肌にしみて、彼は急に死ぬのが恐ろしくなった。彼はかかえていた女の帯を池へ投げ込んで、暗い夜路を一散に逃げ出した。
 しかし彼は一種の不安に付きまとわれて、すぐに自分の家へ帰ることも出来なかった。たとい自分が手をおろして殺したのでないにもせよ、おみよの死について何かの連坐《まきぞえ》を受けるのが恐ろしかった。大久保の屋敷の崇りもおそろしかった。質屋に奉公していたときの故《もと》朋輩が、堀の内の近所に住んでいるのを思い出して、千次郎はその足ですぐ堀の内へたずねて行った。好い加減の嘘をついて、そこに十日ほども忍んでいたが、いつまでその厄介になっているわけにも行かないので、彼は幾らかの路銀を借りてふたたび江戸へ帰って来た。それはお登久が雑司ヶ谷で半七に逢った翌《あく》る晩であった。
 母に対しても、お登久に対しても、かれは正直に打ちあける勇気がないので、ここでもまた好い加減の嘘を作って、筋の悪い品物を買った為にその引き合いを受けるのが迷惑だから、当分は世間に顔を出したくないと云った。お登久は母と相談の上で、可愛い男を自分の家に隠まって置いた。その秘密は半七に看破《みやぶ》られたばかりか、あわせて千次郎の秘密までもさらけ出されたので、お登久は急に口惜《くや》しくなった。かれは押え切れない嫉妬に眼がくらんで、今まで大事に抱えていた男を半七の前に突き出したのであった。

「それからどうしました」と、わたしは半七老人に
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