ているらしかった。
「畜生め」
半七は笑いながら権太郎に眼くばせして、二人は草履を手に持って一度に障子をあけた。つづいて次の襖を蹴ひらいて、六畳の座敷へばらばら跳り込むと、うす暗いなかには一匹の獣《けもの》がひそんでいた。獣は奇怪な叫び声をあげながら、障子を破って縁側へ逃げ出そうとしたところを、半七はうしろから追い付いてその頭を草履でなぐった。権太郎もつづいて撲り付けた。獣は度を失ったらしく、白い牙をむき出して権太郎に飛びかかって来た。こういう場合には平生《へいぜい》のいたずらが役に立って、彼は物ともしないでその奇怪な獣と取っ組んだ。怪物はおそろしい声をあげて唸った。
「権太、しっかりしろ」
声をかけて励ましながら、半七は頭にかぶっていた手拭を取って、うしろからその敵の喉に巻きつけた。喉をしめられて怪物もさすがに弱ったらしく、いたずらに手足をもがきながら権太郎にとうとう組み敷かれてしまった。気の利いている権太郎は自分の帯を解いて、すぐに彼をぐるぐる巻きに縛りあげた。そのあいだに半七は縁側の雨戸をこじあけると、陰った日の薄い光りが空家のなかへ流れ込んだ。
「畜生、案の通りだ」
権太郎に生捕られた怪物は大きな猿であった。この怪物と格闘した形見《かたみ》として、彼は頬や手足に二、三カ所の爪のあとを残された。
「なに、この位、痛かあねえ」と、彼は得意らしく自分の獲物をながめていた。猿は死にもしないで、おそろしい眼を瞋《いか》らせていた。
「これが宮本|無三四《むさし》か何かだと、狒々《ひひ》退治とか云って芝居や講釈に名高くなるんですがね」と、半七老人は笑った。「それから自身番へ引き摺って行くと、みんなもびっくりして町内総出で見物に来ましたよ。なぜわたしが猿公《えてこう》と見当をつけたかと云うんですか。それは半鐘をあらために登った時に、火の見梯子に獣の爪の跡がたくさん残っていたからですよ。どうも猫でもないらしい。こいつは猿公が悪戯《いたずら》をするんじゃないかと、ふいと思い付いたんです。囲い者の傘の上に飛び付いたり、物干のあかい着物を攫って行ったり、どうしても猿公の仕業《しわざ》らしゅうござんすからね。そこで、その猿公がどこに隠れているのか、わたくしは稲荷の社《やしろ》だろうと見当を付けたんですが、それはちっとはずれました。けれども多分最初のうちは社の奥にかくれていて、お供物《くもつ》なんぞを盗み食いしていたのが、だんだん増長していろいろの悪戯を始め出して、そのうちに囲い者の家があいたもんだから、その空店《あきだな》の方へ巣替えをして、またまた悪さをしたんだろうと思います。可哀そうなのは権太郎で、ふだんの悪戯が祟りをなして飛んだひどい目に逢いましたが、兄貴のことは私のほかに誰も知りません。なにもかもみんな猿公の悪戯ということになってしまいました。権太郎もその化け物を退治してから、町内の人達にも可愛がられるようになりましてね。とうとう一人前の職人になりましたよ」
「一体その猿はどこから来たんです」と、わたしは訊いた。
「それが可笑《おか》しいんです。その猿公はね、両国の猿芝居の役者なんです。それがどうしてか逃げ出して、どこの屋根を伝ったか縁の下をくぐったか、この町内へまぐれ込んで来て、とうとうこんな騒ぎを仕出来《しでか》したんですが、だんだん調べてみると、こいつは女形《おんながた》で八百屋お七を出し物にしていたんです。ね、面白いじゃありませんか、ふだんから火の見櫓にあがって、打てば打たるる櫓の太鼓、か何かやっていたもんだから、同じいたずらをするにしても、火の見梯子へ駈けあがって、半鐘をじゃんじゃん[#「じゃんじゃん」に傍点]打《ぶ》っ付けたと見えるんですね。猿公に芝居がかりで悪戯をされちゃあ堪まりませんや。はははははは。わたくしも長年の間、いろいろの捕物をしましたがね、猿公にお縄をかけたのは飛んだお笑いぐさですよ」
「その猿はどうしました」と、わたしは好奇心にそそられて又訊いた。
「その飼主は一貫文の科料、猿公は世間をさわがしたという罪で遠島、永代橋から遠島船に乗せられて八丈島へ送られました。奴は芝居小屋なんぞで窮屈な思いをしているよりも、島へ行って野放しにされた方が仕合わせだったかも知れません。畜生のことですもの、島の役人だって厳重に縛って置いたりするもんですか、どこへかおっ放してしまいますよ」
猿の遠島――こんな珍らしい話を聴かされて、わたしは今日もわざわざたずねて来た甲斐があったと思った。
底本:「時代推理小説 半七捕物帳(一)」光文社文庫、光文社
1985(昭和60)年11月20日初版1刷発行
入力:tat_suki
校正:菅野朋子
1999年6月1日公開
2004年2月29日修正
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