日の鞴祭《ふいごまつ》りであることを半七はすぐに覚った。小児の群れのうしろから覗いて見ると、親方が蜜柑を往来へ威勢よく撒《ま》いていた。職人も権太郎も笊《ざる》に入れた蜜柑を忙がしそうに店へ運んでいた。
 半七は自身番へ寄って、家主を相手に世間話をしながら、鍛冶屋の蜜柑撒きの済むのを待っていた。半鐘一件の片付かない間は、家主はかならず交代で自身番へ詰めていることになったので、早く埒が明いてくれなければ困るなどと、家主は手前勝手な愚痴を云っていた。
「御心配にゃあ及びません。近いうちに何とか眼鼻をつけてお目にかけます」と、半七は慰めるように云った。
「どうか宜しく願います。だんだん寒空には向って来ますし、火事早い江戸で半鐘騒ぎは気が気でありませんよ」と、家主はいかにも弱り抜いているらしかった。
「お察し申します。なに、もうちっとの御辛抱ですよ。あの鍛冶屋の鞴祭りが済んだらば、小僧をちょいと此処へ呼んで下さいませんか」
「やっぱりあの小僧がおかしゅうございますか」
「と云う訳でもありませんが、少し訊きたいことがありますから、あんまり嚇《おど》かさないでそっと連れて来てください」
 往来へころがる蜜柑の数もだんだん減って、子供たちの影も鍛冶屋の店さきを散ってしまうと、家主は権太郎を呼びに行った。半七は煙草をのみながら表を眺めていると、壁色の空はしだいに厚くなって来て、魔のような黒い雲がこの町の上を忙がしそうに通った。海鼠《なまこ》売りの声が寒そうにきこえた。
「これは神田の半七親分だ。おとなしく御挨拶をしろ」と、家主は権太郎を引っ張って来て半七のまえに坐らせた。きょうは鞴祭りのせいか、権太郎はいつものまっ黒な仕事着を小ざっぱりした双子《ふたこ》に着かえて、顔もあまりくすぶらしていなかった。
「おめえが権太郎というのか。親方は今なにをしている」と、半七は訊いた。
「これからお祝いの酒が始まるんだ」
「それじゃあ差当りお前に用もあるめえ。きょうは蜜柑まきで、お前は蜜柑を貰ったか」
「十個《とお》ばかり貰った」と、権太郎は袂を重そうにぶらぶら振ってみせた。
「そうか。なにしろ、ここじゃ話ができねえ。裏の空地《あきち》まで来てくれ」
 表へ出ると、霰《あられ》がばらばら降って来た。
「あ、降って来た」と、半七は暗い空を見た。「まあ、大したこともあるめえ。さあ、すぐに来い」

  
前へ 次へ
全18ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング