の方でもさすがに根負けがしたらしく、いつとは無しにその相談も立ち消えになった。巨大な魚は逃げてしまった。
 歌女寿は歯ぎしりをして口惜しがった。折角の旦那を取り逃がしたのも、歌女代のわがまま強情からであると、歌女寿は無暗にかれを憎んだ。倒れるまで働くと云った歌女代の言質《ことばじち》を取って、決してべんべんと寝そべっていることはならない、仆《たお》れるまで働いてくれと、真っ蒼な顔をして寝ている歌女代を無理に引き摺り起して、朝から晩まで弟子たちの稽古をつづけさせた。勿論、医師にも診せてやろうともしなかった。お仲という若い地弾きが歌女代に同情して、そっと買薬などしてやっていたが、その年の土用の激しい暑気がいよいよ歌女代の弱った身体をしいたげて、彼女はもう骸骨のように痩せ衰えてしまった。それでも歌女寿は意地悪く稽古を休ませなかったので、彼女は殆ど半死半生のおぼつかない足もとで稽古台の上に毎日立ちつづけていた、お仲も肚《はら》の仲ではらはらしていたが、大《おお》師匠の怖い目に睨まれて、彼女はどうすることも出来なかった。
 もう二、三日で盆休みが来るという七月九日の午すぎに、歌女代はとうとう精も根も尽きはてて、山姥《やまんば》を踊りながら舞台の上にがっくり倒れた。邪慳な養母にさいなまれつづけて、若い美しい師匠は十八の初秋にこの世と別れを告げた。
 その新盆《にいぼん》のゆうべには、白い切子燈籠の長い尾が、吹くともない冷たい風にゆらゆらとなびいて、この薄暗い灯のかげに若い師匠のしょんぼりと迷っている姿を、お仲はまざまざと見たと近所のものに顫《ふる》えながらささやいた。噂はそれからそれへと伝えられて、ふだんから歌女寿を快く思っていない人達は、更に尾鰭を添えていろいろのことを云い出した。歌女寿の家《うち》では夜がふけると、暗い稽古舞台の上で誰ともなしにとんとん足拍子を踏む音が微かに聞えるという薄気味の悪い噂が立った。歌女寿の家へは幽霊が出るということに決まってしまった。お化け師匠のおそろしい名が町内にひろまって、弟子たちもだんだんに寄り付かなくなった。お仲も暇を取って立ち去った。
 そのお化け師匠が今死んだのである。
「どうして死んだ。あいつのこったから、悪いものでも食って中《あた》ったのか」と、半七は嘲《あざけ》るようにささやいた。
「どうして、そんなんじゃありません」と、源次は
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