ずぞっ[#「ぞっ」に傍点]としました。なにしろ、それが丁度若い師匠の一周忌というんですから」
半七が想像した通り、若い師匠と若い経師職とのあいだには、こうした悲しい恋物語が潜んでいたのであった。彼の懺悔に偽りのないことは、若い男の眼から意気地なく流れる涙の色を見てもうなずかれた。
「若い師匠が死んでから、おまえさんはもう師匠の家へはちっとも出這入りをしなかったかね」
「へえ」と、弥三郎は口ごもるように云った。
「隠しちゃあいけねえ。大事な場合だ。え、ほんとうに出這入りをしなかったのか」
「それが実におかしいんです」
「どうおかしいんだ。まっすぐに云いねえ」
半七に睨まれて、弥三郎はなにか頻りにもじもじしていたが、とうとう思い切ってこんなことを白状した。若い師匠が死んでひと月ばかり経つと、歌女寿が経師職の店へぶらりと来て、店に仕事をしている弥三郎を表へ呼び出した。娘の三十五日の配り物や何かについて少し相談したいことがあるから、今夜ちょいと家《うち》へ来てくれと云うのであった。その晩出てゆくと、配り物の話は付けたりで、師匠は弥三郎にむかって自分の家の婿になってくれないかと突然云い出した。頼りにしていた娘に別れて何分寂しくてならないから、お前さんを見込んで頼む、どうぞ養子になってくれと云った。
思いも付かない話でもあり、且は自分は惣領の跡取りであるので、弥三郎は無論にことわって帰った。しかし師匠の方でなかなか諦めないらしく、その後も執念ぶかく付きまとって来て、何かと名をつけて無理に彼を呼び出そうとした。一度は途中でつかまって、否応なしに湯島辺のある茶屋へ引っ張って行かれた。下戸の弥三郎は酒を強《し》いられた。歌女寿もだんだんに酔いがまわって来て、婿になれというのか亭主になれというのか、訳の判らないようなことを媚《なまめ》かしい素振りで云い出したので、気の小さい弥三郎は顫えるほどに驚いて、一生懸命に振り切って逃げて帰った。
「その茶屋へ引っ張られて行ったのは何日《いつ》頃だね」と、半七は笑いながら訊いた。
「ことしの正月です。それから三月にも浅草で出っくわして、無理にどっかへ引っ張られようとしたのを、それもようよう振り切って逃げました。それから五月の末でしたろう。日が暮れてから近所の湯へ行くと、その帰りにわたくしが男湯から出ると、師匠もちょうど女湯から出る、そこでばっ
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