た。
「泣いても笑っても今日はもう仕方がねえ。お吉の奴が家へ帰るかどうだか能く気をつけていろ。それからもう一人の武士が来たらば、今度こそしっかりと後をつけて、よくその居どこを突き留めて置け。てめえの種出しじゃあねえか、少し身を入れて働け」
その日はそのまま別れて帰ったが、なんだか疳《かん》が昂ぶって半七はその晩おちおち寝付かれなかった。明くる朝はひどく寒かった。彼はいつもの通りに冷たい水で顔を洗って家を飛び出すと、朝日のあたらない横町は鉄のように凍って、近所の子供が悪戯《いたずら》にほうり出した隣りの家の天水桶の氷が二寸ほども厚く見えた。
半七は白い息を噴きながら、愛宕下へ急いで行った。
「どうだ、熊。あれぎり変ったことはねえか」
「親分。お吉の奴は駈け落ちをしたようですよ。とうとうあれぎりで家へ帰らねえそうで、今朝おふくろが心配らしく訊きに来ましたよ」と、熊蔵は顔をしかめてささやいた。
「そうか」と、半七の額にも太い皺が描かれた。「だが、まあ仕方がねえ。もう一日気長に網を張っていてみよう。もう一人の奴がやって来ねえとも限らねえから」
「そうですねえ」と、熊蔵は張り合い抜けがしたようにぼんやりしていた。
半七は二階にあがると、けさはお吉がいないので其処には火の気もなかった。熊蔵の女房が言い訳をしながら火鉢や茶などを運んで来た。朝のあいだは二階へあがる客もないので、半七は煙草をのみながら唯ひとりつくねんと坐っていると、春の寒さが襟にぞくぞくと沁みて来た。
「お吉の奴め、この頃は浮わついているんで、障子も碌に貼りゃあがらねえ」と、熊蔵は窓の障子の破れを見かえりながら舌打ちした。
半七は返事もしないで考えつめていた。おととい此の二階で発見した人間の首、動物の頭、きのう日蔭町で見た泥鮫の皮、それが一つに繋がって彼の頭の中を走馬燈《まわりどうろう》のようにくるくると駈け廻っていた。魔法つかいか、切支丹か、強盗か、その疑いも容易に解決しなかった。それに付けても、昨日かの武士の後を尾《つ》け損じたのが残念であった。熊蔵のようなどじ[#「どじ」に傍点]を頼まずに、いっそ自分がすぐに尾けて行けばよかったなどと、今更のように悔まれた。
親分の顔色が悪いので、熊蔵も手持無沙汰で黙っていた。芝の山内の鐘がやがて四ツ(午前十時)を打った。下の格子があいたと思うと、番台の男が「いらっ
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