に相違ないと、わたくしが疑ぐるのが無理でしょうか。それはわたくしの邪推でしょうか。親分、お前さんは何とお思いです」
 和泉屋の息子にこうした秘密のあることは、半七も今までまるで知らなかった。なるほど文字清のいう通り、角太郎は継子《ままこ》である。しかも主人の隠し子である。たとい表面は美しく自分の家へ引取っても、おかみさんの胸の奥に冷たい凝塊《しこり》の残っていることは否《いな》まれない。まして其の後に自分の実子が出来た以上は、角太郎に身代を渡したくないと思うのも女の情としては無理もない。それが嵩《こう》じて、今度のような非常手段を企《たくら》むということも必ず無いとは受け合えない。半七はこれまで種々の犯罪事件を取り扱っている経験から、人間の恐ろしいということも能く識っていた。
 文字清は無論、和泉屋のおかみさんを我が子のかたきと一途《いちず》に思いつめているらしかった。
「親分、察してください。わたくしは口惜しくって、口惜しくって……。いっそ出刃庖丁でも持って和泉屋へ暴れ込んで、あん畜生をずたずたに切り殺してやろうかと思っているんですが……」
 彼女は次第に神経が昂《たか》ぶって、物狂おしいほどに取りのぼせていた。ここでうっかり嗾《けしか》けるようなことを云ったら、病犬《やまいぬ》のような彼女は誰に啖《くら》い付こうも知れなかった。半七は逆らわずに、黙って煙草をすっていたが、やがてしずかに口をあいた。
「すっかり判りました。ようがす。わたしが出来るだけ調べてあげましょう。如才《じょさい》はあるめえが、当分は誰にも内証にして……」
「いくら自分の子になっているからと云って、角太郎を殺したおかみさんは無事じゃあ済みますまいね。お上《かみ》できっとかたきを取って下さるでしょうね」と、文字清は念を押した。
「そりゃあ知れたことさ。まあ、なんでもいいから私にまかせてお置きなせえ」
 文字清をなだめて帰して、半七はすぐに出る支度をした。お粂はあとに残って義姉《あね》のお仙と何かしゃべっていた。
「兄さん。御苦労さまね。まったく和泉屋のおかみさんが悪いんでしょうか」と、半七の出る時にお粂はうしろからささやくように訊いた。
「そりゃあ判らねえ。なんとか手を着けてみようよ」
 半七はまっすぐ京橋へ向った。いくら御用聞きでも、何の手がかりも無しにむやみに和泉屋へ乗り込んで詮議立てをするわけには行かなかった。彼は鉄物《かなもの》屋の店先を素通りして、町内の鳶頭《かしら》の家《うち》をたずねた。鳶頭はあいにく留守だというので、彼はその女房とふた言三言挨拶して別れた。
「これから何処へ行ったものだろう」
 往来に立って思案しているうちに、半七はうしろから自分を追い掛けて来た人のあるのに気がついた。それは五十以上の町人風の男で、悪い生活の人ではないということは一と目にも知られた。男は半七のそばへ来て丁寧に挨拶した。
「まことに失礼でございますが、お前さんは神田の親分さんじゃあございますまいか。わたくしは芝の露月町《ろうげつちょう》に鉄物渡世をいたして居ります大和屋十右衛門と申す者でございますが、只今あの鳶頭の家へ少し相談があって訪ねてまいりますと、鳶頭は留守で、おかみさんを相手に何かの話をして居ります所へ、お前さんがお出でになりまして……。おかみさんに訊くと、あれは神田の親分さんだというので、好い折柄と存じまして、すぐにおあとを追ってまいりましたのですが、いかがでございましょうか。御迷惑でもちょいとそこらまで御一緒においで下さるわけには……」
「ようございます。お伴《とも》いたしましょう」
 十右衛門に誘われて、半七は近所の鰻屋へはいった。小ぢんまりした南向きの二階の縁側にはもう春らしい日影がやわらかに流れ込んで、そこらにならべてある鉢植えの梅のおもしろい枝振りを、あかるい障子へ墨絵のように映していた。あつらえの肴《さかな》の来るあいだに二人は差し向いで猪口の献酬《やりとり》を始めた。
「親分もお役目柄でもう何もかも御承知でございましょうが、和泉屋の伜も飛んだことになりまして……。実はわたくしは和泉屋の女房の兄でございます。今度のことに就きまして、死んだ者は今さら致し方もございませんが、さて其の後の評判でございますが……。人の口はまことにうるさいもので、妹もたいへん心配して居りますので……」
 十右衛門は思い余ったように云った。角太郎の変死については生みの母の文字清ばかりでなく、その秘密を薄々知っている出入りの者のうちには、やはり同じような疑いの眼の光りをおかみさんの上に投げている者もあるらしい。十右衛門はそれを苦に病んで、きょうも町内の鳶頭のところへ相談に行ったのであった。
「どうして本身の刀と掏り替っていたか、内々それを調べて貰いたいと存じまして……。万一つまらない噂などを立てられますと、妹が実に可哀そうでございます。兄の口から斯《こ》う申すもいかがでございますが、あれはまったく正直なおとなしい女でございまして、角太郎を生みの子のように大切にして居りましたのに……。それを何か世間にありふれた継母《ままはは》根性のようにでも思われますのは、いかにも心外で……。ともかくも葬式《とむらい》はきのう済みましたから、これから何とか致してその間違いの起った筋道を詮議いたしたいと存じて居るのでございます。その筋道がよく判りませんで、妹が何かの疑いでも受けますようでございますと、妹は気の小さい女ですから、あんまり心配して気違いにでもなり兼ねません。それが不憫《ふびん》でございまして……」と、十右衛門は鼻紙を出して洟《はな》をかんだ。
 文字清も気違いになりかかっている。和泉屋のおかみさんも気違いになるかも知れないと云う。文字清の話がほんとうであるか、十右衛門の話がいつわりであるか。さすがの半七にも容易に判断がつかなかった。
「芝居の晩にはおまえさんも無論見物に行っておいでになったんでしょうね」と、半七は猪口《ちょこ》をおいて訊いた。
「はい。見物して居りました」
「楽屋には大勢詰めていたんでしょうね」
「なにしろ楽屋が狭うございまして、八畳に十人ばかり、離れの四畳半に二人。役者になる者はそれだけでしたが、ほかに手伝いが大勢で、おまけに衣裳やら鬘《かつら》やらがそこら一ぱいで、足の踏み立てられないような混雑でございました。しかしみんな町人ばかりでございますから、そこに大小などの置いてあろう筈はないのでございます。最初にめいめいの小道具類を渡されました時に、角太郎も一々調べて見ましたそうですから、その時には決して間違って居りませんので……。いよいよ舞台へ出るという間ぎわに多分取り違ったか、掏り替えられたか。一体誰がそんなことをしたのか、まるで見当が付きませんので困って居ります」
「なるほど」
 半七は殆ど猪口をそのままにして腕を拱《く》んでいた。十右衛門も黙って自分の膝の上を眺めていた。一匹の蠅が障子の紙を忙がしそうに渡ってゆく跫音《あしおと》が微かに響いた。
「若旦那は八畳にいたんですか、四畳半の方ですか」
「四畳半の方におりました。庄八、長次郎、和吉という店の者と一緒に居りました。庄八は衣裳の手伝いをして、長次郎は湯や茶の世話をしていたようでした。和吉は役者でございまして、千崎弥五郎を勤めて居りました」
「それから、おかしなことを伺うようですが、若旦那は芝居のほかに何か道楽がありましたかえ」と、半七は訊いた。
 碁将棋のたぐいの勝負事は嫌いである、女道楽の噂も聞いたことがないと、十右衛門は答えた。
「お嫁さんの噂もまだ無いんですね」
「それは内々きまって居りますので」と、十右衛門はなんだか迷惑そうに云った。「こうなれば何もかも申し上げますが、実は仲働きのお冬という女に手をつけまして……。尤もその女は容貌《きりょう》も好し、気立ても悪くない者ですから、いっそ世間に知られないうちに相当の仮親でもこしらえて、嫁の披露をしてしまった方が好いかも知れないなどと、親達も内々相談して居りましたのですが、思いもつかない斯《こ》んなことになってしまいまして、つまり両方の運が悪いのでございます」
 この恋物語に半七は耳をかたむけた。
「そのお冬というのは幾つで、どこの者です」
「年は十七で、品川の者です」
「どうでしょう。そのお冬という女にちょいと逢わして貰うわけには参りますまいか」
「なにしろ年は若うございますし、角太郎が不意にあんなことになりましたので、まるで気抜けがしたようにぼんやりして居りますから、とても取り留めた御挨拶などは出来ますまいが、お望みならいつでもお逢わせ申します」
「なるたけ早いがようございますから、お差し支えがなければ、これからすぐに御案内を願えますまいか」
「承知いたしました」
 二人は飯を食ってしまったら、すぐ和泉屋へ出向くことに相談をきめた。十右衛門が待ちかねて手を鳴らした時に、あつらえの鰻をようよう運んで来た。

     三

 十右衛門は急いで箸をとったが、半七は碌々に飯を食わなかった。彼は熱いのをもう一本持って来てくれと女中に頼んだ。
「親分はよっぽど召し上がりますか」と、十右衛門は訊いた。
「いいえ、野暮《やぼ》な人間ですからさっぱり飲《い》けないんです。だが、きょうは少し飲みましょうよ。顔でも紅《あか》くしていねえと景気が付きませんや」と、半七はにやにや笑っていた。
 十右衛門は妙な顔をして黙ってしまった。
 女中が持って来た一本の徳利を半七は手酌でつづけて飲み干した。南に日をうけた暖い座敷で真昼に酒をのみ過したので、半七の顔も手足も歳の市《まち》で売る飾りの海老《えび》のように真っ紅になった。
「どうです。渋っ紙は好い加減に染まりましたか」と、半七は熱い頬を撫でた。
「はい、好い色におなりでございます」と、十右衛門は仕方なしに笑っていた。
 そうして、こんなに酔っている男を和泉屋へ案内するのは、なんだか心許《こころもと》ないようにも思ったらしいが、今更ことわるわけにも行かないので、かれは勘定を払って半七を表へ連れ出した。半七の足もとは少し乱れて、向うから鮭をさげて来る小僧に危く突き当りそうになった。
「親分。大丈夫ですか」
 十右衛門に手を取られて半七はよろけながら歩いた。飛んだ人に飛んだことを相談したと、十右衛門はいよいよ後悔しているらしく見えた。
「旦那。どうぞ裏口からこっそり入れてください」と、半七は云った。
 しかし、まさかに裏口へも廻されまいと十右衛門は少し躊躇していると、半七は店の横手の路地へはいって、ずんずん裏口の方へまわって行った。その足取りはあまり酔っているらしくも見えなかった。十右衛門は追うように其の後について行った。
「すぐにお冬どんに逢わしてください」
 裏口からはいった半七は、広い台所を通りぬけて女中部屋を覗いたが、そこには三人の赭《あか》ら顔の女中がかたまっていて、お冬らしい女のすがたは見えなかった。
「お冬はどうした」と、十右衛門は障子を細目にあけると、赭ら顔は一度にこっちを振り向いて、お冬はゆうべから気分が悪いというので、おかみさんの指図で離れ座敷の四畳半に寝かしてあると答えた。その四畳半は十九日の晩、角太郎の楽屋にあてた小座敷であった。
 縁伝いで奥へ通ると、狭い中庭には大きな南天が紅い玉を房々と実らせていた。ふたりは障子の前に立って、十右衛門が先ず声をかけると、障子は内から開かれた。障子をあけたのはお冬の枕辺に坐っていた若い男で、お冬は鬢も隠れるほどに衾《よぎ》を深くかぶっていた。男は小作りで色のあさ黒い、額の狭い眉の濃い顔であった。
 十右衛門に挨拶して、若い男は早々に出て行ってしまった。あれが先刻《さっき》お話し申した千崎弥五郎の和吉ですと、十右衛門が云った。
 衾を掻いやって蒲団の上に起き直ったお冬の顔は、半七がけさ逢った文字清の顔よりも更に蒼ざめて窶《やつ》れていた。生きた幽霊のような彼女は、なにを聞いても要領を得るほどの捗々《はかばか》しい返事をしなかった。かれは恐ろしい其の夜の
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