丁度こっちに子供が無いから引き取って自分の子にしたいと……。わたくしも手放すのは忌《いや》でしたけれども、向うへ引き取られれば立派な店の跡取りにもなれる。つまり本人の出世にもなることだと思いまして、産れると間もなく和泉屋の方へ渡してしまいました。で、こういう親があると知れては、世間の手前もあり、当人の為にもならないというので、わたくしは相当の手当てを貰いまして、伜とは一生縁切りという約束をいたしました。それから下谷の方へ引っ越しまして、こんにちまで相変らずこの商売をいたして居りますが、やっぱり親子の人情で、一日でも生みの子のことを忘れたことはございません。伜がだんだん大きくなって立派な若旦那になったという噂を聴いて、わたくしも蔭ながら喜んで居りますと、飛んでもない今度の騒ぎで……。わたくしはもう気でも違いそうに……」
 文字清は畳に食いつくようにして、声を立てて泣き出した。

     二

「へええ。そんな内情《いきさつ》があるんですかい。わたしはちっとも知らなかった」と、半七は喫《の》みかけていた煙管《きせる》をぽんと叩いた。「それにしても、若旦那の死んだのは不時の災難で、誰を怨むというわけにも行くめえと思うが……。それとも其処にはなにか理窟がありますかえ」
「はい、判って居ります。おかみさんが殺したに相違ございません」
「おかみさんが……。まあ落ち着いて訳を聞かしておくんなせえ。若旦那を殺すほどならば、最初から自分の方へ引き取りもしめえと思うが……」
 訊く人の無智を嘲《あざけ》るように、文字清は涙のあいだに凄い笑顔を見せた。
「角太郎が和泉屋へ貰われてから五年目に、今のおかみさんの腹に女の子が出来ました。お照といって今年十五になります。ねえ、親分。おかみさんの料簡《りょうけん》になったら、角太郎が可愛いでしょうか。自分の生みの娘が可愛いでしょうか。角太郎に家督を譲りたいでしょうか。お照に相続させたいでしょうか。ふだんは幾ら好い顔をしていても、人間の心は鬼です。邪魔になる角太郎をどうして亡き者にしようか位のことは考え付こうじゃありませんか。まして角太郎は旦那の隠し子ですもの、腹の底には女の嫉みもきっとまじっていましょう。そんなことをいろいろ考えると、おかみさんが自分でしたか人にやらせたか、楽屋のごたごたしている隙《すき》をみて、本物の刀と掏《す》り替えて置いたに相違ないと、わたくしが疑ぐるのが無理でしょうか。それはわたくしの邪推でしょうか。親分、お前さんは何とお思いです」
 和泉屋の息子にこうした秘密のあることは、半七も今までまるで知らなかった。なるほど文字清のいう通り、角太郎は継子《ままこ》である。しかも主人の隠し子である。たとい表面は美しく自分の家へ引取っても、おかみさんの胸の奥に冷たい凝塊《しこり》の残っていることは否《いな》まれない。まして其の後に自分の実子が出来た以上は、角太郎に身代を渡したくないと思うのも女の情としては無理もない。それが嵩《こう》じて、今度のような非常手段を企《たくら》むということも必ず無いとは受け合えない。半七はこれまで種々の犯罪事件を取り扱っている経験から、人間の恐ろしいということも能く識っていた。
 文字清は無論、和泉屋のおかみさんを我が子のかたきと一途《いちず》に思いつめているらしかった。
「親分、察してください。わたくしは口惜しくって、口惜しくって……。いっそ出刃庖丁でも持って和泉屋へ暴れ込んで、あん畜生をずたずたに切り殺してやろうかと思っているんですが……」
 彼女は次第に神経が昂《たか》ぶって、物狂おしいほどに取りのぼせていた。ここでうっかり嗾《けしか》けるようなことを云ったら、病犬《やまいぬ》のような彼女は誰に啖《くら》い付こうも知れなかった。半七は逆らわずに、黙って煙草をすっていたが、やがてしずかに口をあいた。
「すっかり判りました。ようがす。わたしが出来るだけ調べてあげましょう。如才《じょさい》はあるめえが、当分は誰にも内証にして……」
「いくら自分の子になっているからと云って、角太郎を殺したおかみさんは無事じゃあ済みますまいね。お上《かみ》できっとかたきを取って下さるでしょうね」と、文字清は念を押した。
「そりゃあ知れたことさ。まあ、なんでもいいから私にまかせてお置きなせえ」
 文字清をなだめて帰して、半七はすぐに出る支度をした。お粂はあとに残って義姉《あね》のお仙と何かしゃべっていた。
「兄さん。御苦労さまね。まったく和泉屋のおかみさんが悪いんでしょうか」と、半七の出る時にお粂はうしろからささやくように訊いた。
「そりゃあ判らねえ。なんとか手を着けてみようよ」
 半七はまっすぐ京橋へ向った。いくら御用聞きでも、何の手がかりも無しにむやみに和泉屋へ乗り込んで詮議立てをする
前へ 次へ
全9ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング