をしていたようでした。和吉は役者でございまして、千崎弥五郎を勤めて居りました」
「それから、おかしなことを伺うようですが、若旦那は芝居のほかに何か道楽がありましたかえ」と、半七は訊いた。
碁将棋のたぐいの勝負事は嫌いである、女道楽の噂も聞いたことがないと、十右衛門は答えた。
「お嫁さんの噂もまだ無いんですね」
「それは内々きまって居りますので」と、十右衛門はなんだか迷惑そうに云った。「こうなれば何もかも申し上げますが、実は仲働きのお冬という女に手をつけまして……。尤もその女は容貌《きりょう》も好し、気立ても悪くない者ですから、いっそ世間に知られないうちに相当の仮親でもこしらえて、嫁の披露をしてしまった方が好いかも知れないなどと、親達も内々相談して居りましたのですが、思いもつかない斯《こ》んなことになってしまいまして、つまり両方の運が悪いのでございます」
この恋物語に半七は耳をかたむけた。
「そのお冬というのは幾つで、どこの者です」
「年は十七で、品川の者です」
「どうでしょう。そのお冬という女にちょいと逢わして貰うわけには参りますまいか」
「なにしろ年は若うございますし、角太郎が不意にあんなことになりましたので、まるで気抜けがしたようにぼんやりして居りますから、とても取り留めた御挨拶などは出来ますまいが、お望みならいつでもお逢わせ申します」
「なるたけ早いがようございますから、お差し支えがなければ、これからすぐに御案内を願えますまいか」
「承知いたしました」
二人は飯を食ってしまったら、すぐ和泉屋へ出向くことに相談をきめた。十右衛門が待ちかねて手を鳴らした時に、あつらえの鰻をようよう運んで来た。
三
十右衛門は急いで箸をとったが、半七は碌々に飯を食わなかった。彼は熱いのをもう一本持って来てくれと女中に頼んだ。
「親分はよっぽど召し上がりますか」と、十右衛門は訊いた。
「いいえ、野暮《やぼ》な人間ですからさっぱり飲《い》けないんです。だが、きょうは少し飲みましょうよ。顔でも紅《あか》くしていねえと景気が付きませんや」と、半七はにやにや笑っていた。
十右衛門は妙な顔をして黙ってしまった。
女中が持って来た一本の徳利を半七は手酌でつづけて飲み干した。南に日をうけた暖い座敷で真昼に酒をのみ過したので、半七の顔も手足も歳の市《まち》で売る飾りの海老《えび》のように真っ紅になった。
「どうです。渋っ紙は好い加減に染まりましたか」と、半七は熱い頬を撫でた。
「はい、好い色におなりでございます」と、十右衛門は仕方なしに笑っていた。
そうして、こんなに酔っている男を和泉屋へ案内するのは、なんだか心許《こころもと》ないようにも思ったらしいが、今更ことわるわけにも行かないので、かれは勘定を払って半七を表へ連れ出した。半七の足もとは少し乱れて、向うから鮭をさげて来る小僧に危く突き当りそうになった。
「親分。大丈夫ですか」
十右衛門に手を取られて半七はよろけながら歩いた。飛んだ人に飛んだことを相談したと、十右衛門はいよいよ後悔しているらしく見えた。
「旦那。どうぞ裏口からこっそり入れてください」と、半七は云った。
しかし、まさかに裏口へも廻されまいと十右衛門は少し躊躇していると、半七は店の横手の路地へはいって、ずんずん裏口の方へまわって行った。その足取りはあまり酔っているらしくも見えなかった。十右衛門は追うように其の後について行った。
「すぐにお冬どんに逢わしてください」
裏口からはいった半七は、広い台所を通りぬけて女中部屋を覗いたが、そこには三人の赭《あか》ら顔の女中がかたまっていて、お冬らしい女のすがたは見えなかった。
「お冬はどうした」と、十右衛門は障子を細目にあけると、赭ら顔は一度にこっちを振り向いて、お冬はゆうべから気分が悪いというので、おかみさんの指図で離れ座敷の四畳半に寝かしてあると答えた。その四畳半は十九日の晩、角太郎の楽屋にあてた小座敷であった。
縁伝いで奥へ通ると、狭い中庭には大きな南天が紅い玉を房々と実らせていた。ふたりは障子の前に立って、十右衛門が先ず声をかけると、障子は内から開かれた。障子をあけたのはお冬の枕辺に坐っていた若い男で、お冬は鬢も隠れるほどに衾《よぎ》を深くかぶっていた。男は小作りで色のあさ黒い、額の狭い眉の濃い顔であった。
十右衛門に挨拶して、若い男は早々に出て行ってしまった。あれが先刻《さっき》お話し申した千崎弥五郎の和吉ですと、十右衛門が云った。
衾を掻いやって蒲団の上に起き直ったお冬の顔は、半七がけさ逢った文字清の顔よりも更に蒼ざめて窶《やつ》れていた。生きた幽霊のような彼女は、なにを聞いても要領を得るほどの捗々《はかばか》しい返事をしなかった。かれは恐ろしい其の夜の
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