《すす》り泣きをしていた。
「金次がそんなに恋しいか」
「あい」
「おめえのような女にも似合わねえな」
「察してください」
 長い橋の中ほどまで来た頃には、河岸《かし》の家々には黄いろい灯のかげが疎《まば》らにきらめきはじめた。大川の水の上には鼠色の煙りが浮かび出して、遠い川下が水明かりで薄白いのも寒そうに見えた。橋番の小屋でも行燈に微かな蝋燭の灯を入れた。今夜の霜を予想するように、御船蔵《おふなぐら》の上を雁の群れが啼いて通った。
「もしあたしに悪いことでもあるとしたら、金さんはどうなるでしょうね」
「そりゃあ当人の云い取り次第さ」
 小柳は黙って眼を拭いていた。と思うと、彼女はだしぬけに叫んだ。
「金さん、堪忍しておくれよ」
 そばにいる半七を力まかせに突き退けて、小柳は燕《つばめ》のように身をひるがえして駈け出した。さすがは軽業師だけにその捷業《はやわざ》は眼にも止まらない程であった。彼女は欄干に手をかけたかと見る間もなく、身体はもうまっさかさまに大川の水底に呑まれていた。
「畜生!」と、半七は歯を噛んだ。
 水の音を聞いて橋番も出て来た。御用という名で、すぐに近所の船頭から舟を出させたが、小柳は再び浮き上がらなかった。あくる日になって向う河岸の百本杭に、女の髪がその昔の浅草|海苔《のり》のように黒くからみついているのを発見した。引き揚げて見ると、その髪の持ち主は小柳であったので、凍った死体は河岸の朝霜に晒《さら》されて検視を受けた。女の軽業師はとうとう命の綱を踏み外してしまった。それが江戸中の評判となって、半七の名もまた高くなった。
 菊村ではすぐ人をやって、まだ目見得《めみえ》中のお菊を無事に潮来から取り戻した。
「今考えると、あの時はまるで夢のようでございました。清次郎は一と足先に帰ってしまって、わたくしはなんだか寂しくなったものですから、お竹の帰ってくるのを待ち兼ねて、なんの気なしに表へ出ますと、大きい樹の下に前から顔を識っている軽業師の小柳が立っていて、清さんが今そこで急病で倒れたからすぐに来てくれと云うのでございます。わたくしはびっくりして一緒に行きますと、清さんは駕籠でお医者の家へかつぎ込まれたから、お前さんも後から駕籠で行ってくれと無理やりに駕籠に乗せられて、やがて何処だか判らない薄暗い家へ連れ込まれてしまったのでございます。そうすると、小柳の様子が急に変って、もう一人の若い男と一緒に、わたくしを散々ひどい目に逢わせまして、それから又遠いところへ送りました。わたくしはもう半分は死んだ者のように茫《ぼう》となってしまいまして、なにをどうしようという知恵も分別《ふんべつ》も出ませんでした」と、お菊は江戸へ帰ってから係り役人の取り調べに答えた。
 番頭の清次郎は単に「叱り置く」というだけで赦《ゆる》された。
 小柳は自滅して仕置を免かれたが、その死に首はやはり小塚ッ原に梟《か》けられた。金次は同罪ともなるべきものを格別の御慈悲を以て遠島申し付けられて、この一件は落着《らくちゃく》した。

「これがまあ私の売出す始めでした」と、半七老人は云った。「それから三、四年も経つうちに、親分の吉五郎は霍乱《かくらん》で死にました。その死にぎわに娘のお仙と跡式一切をわたくしに譲って、どうか跡《あと》を立ててくれろという遺言があったもんですから、子分たちもとうとうわたくしを担《かつ》ぎ上げて二代目の親分ということにしてしまいました。わたくしが一人前の岡っ引になったのはこの時からです。
 その時にどうして小柳に目串《めぐし》を差したかと云うんですか。そりゃあ先刻《さっき》もお話し申した通り、石燈籠の足跡からです。苔に残っている爪先がどうしても女の足らしい。と云って、大抵の女があの高塀を無雑作《むぞうさ》に昇り降りすることが出来るもんじゃあない。よほど身体の軽い奴でなけりゃあならないと思っているうちに、ふいと軽業師ということを思い付いたんです。女の軽業師は江戸にもたくさんありません。そのなかでも両国の小屋に出ている春風小柳という奴はふだんから評判のよくない女で、自分よりも年の若い男に入れ揚げているということを聞いていましたから、多分こいつだろうとだんだん手繰って行くと、案外に早く埒が明いてしまったんです。金次という奴は伊豆の島へやられたんですが、その後なんでも赦《しゃ》に逢って無事に帰って来たという噂を聞きました。
 菊村の店では番頭の清次郎を娘の聟にして、相変らず商売をしていましたが、いくら老舗《しにせ》でも一旦ケチが付くとどうもいけないものと見えて、それから後は商売も思わしくないようで、江戸の末に芝の方へ引っ越してしまいましたが、今はどうなったか知りません。
 どっちにしても助からない人間じゃあありますけれども、小柳を大川へ飛び込ましたのは残念でしたよ。つまりこっちの油断ですね。つかまえるまでは気が張っていますけれども、もう捕まえてしまうと誰でも気がゆるむものですから、油断して縄抜けなんぞを食うことが時々あります。
 まだ面白い話はないかと云うんですか。自分の手柄話ならば幾らもありますよ。はははは。その内にまた遊びにいらっしゃい」
「ぜひ又話して貰いに来ますよ」
 わたしは半七老人と約束して別れた。



底本:「時代推理小説 半七捕物帳(一)」光文社文庫、光文社
   1985(昭和60)年11月20日初版1刷発行
   1997(平成9)年3月25日20刷発行
※誤植の疑われる「薄団」は、「半七捕物帳 巻の一」筑摩書房、1998(平成10)年6月25日初版第1刷発行、1998(平成10)年10月15日初版第2刷発行、「半七捕物帳【続】」大衆文学館、講談社、1997(平成9)年3月20日第1刷発行がともに「蒲団」としていることを確認しました。
入力:砂場清隆
校正:大野晋
2002年5月15日作成
2004年2月29日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング