も出来そうには思われなかった。
半七はなにを考えたか、すぐに菊村の店を出て、現代の浅草公園第六区を更に不秩序に、更に幾倍も混雑させたような両国の広小路に向った。
もうかれこれ午《ひる》頃で、広小路の芝居や寄席も、向う両国の見世物小屋も、これからそろそろ囃《はや》し立てようとする時刻であった。むしろを垂れた小屋のまえには、弱々しい冬の日が塵埃《ほこり》にまみれた絵看板を白っぽく照らして、色のさめた幟《のぼり》が寒い川風にふるえていた。列《なら》び茶屋の門《かど》の柳が骨ばかりに痩せているのも、今年の冬が日ごとに暮れてゆく暗い霜枯れの心持を見せていた。それでも場所柄だけに、どこからか寄せて来る人の波は次第に大きくなって来るらしい。その混雑の中をくぐりぬけて、半七は列び茶屋の一軒にはいった。
「どうだい。相変らず繁昌かね」
「親分、いらっしゃい」と、色の白い娘がすぐに茶を汲《く》んで来た。
「おい、姐さん。早速だが少し聞きてえことがあるんだ。あの小屋に出ている春風|小柳《こりゅう》という女の軽業師《かるわざし》、あいつの亭主は何といったっけね」
「ほほほほほ。あの人はまだ亭主持ちじゃありませんわ」
「亭主でも情夫《いろ》でも兄弟でも構わねえ。あの女に付いている男は誰だっけね」
「金さんのこってすか」と、娘は笑いながら云った。
「そう、そう。金次といったっけ。あいつの家は向う両国だね。小柳も一緒にいるんだろう」
「ほほ、どうですか」
「金次は相変らず遊んでいるだろう」
「なんでも元は大きい呉服屋に奉公していたんだそうですが、小柳さんのところへ反物を持って行ったのが縁になって……。小柳さんよりずっと年の若い、おとなしそうな人ですよ」
「ありがてえ。それだけ判りゃあ好いんだ」
半七はそこを出て、すぐそばの見世物小屋にはいった。この小屋は軽業師の一座で、舞台では春風小柳という女が綱渡りや宙乗りのきわどい曲芸を演じていた。小柳は白い仮面《めん》をかぶったような厚化粧をして、せいぜい若々しく見せているが、ほんとうの年齢《とし》はもう三十に近いかも知れない。墨で描いたらしい濃い眉と、紅を眼縁《まぶた》にぼかしたらしい美しい眼とを絶えず働かせながら、演技中にも多数の見物にむかって頻りに卑しい媚《こび》を売っている。それがたまらなく面白いもののように、見物は口をあいてみとれていた。半
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