け見えるとしても、ここへ来てから四年の後に初めて姿をあらわすというのも不思議である。しかしこの場合、ほかに詮議のしようもないから、差し当っては先ず屋敷じゅうの者どもを集めて問いただしてみようというのであった。
「なにぶんお願い申す」と、松村も同意した。小幡は先ず用人《ようにん》の五左衛門を呼び出して調べた。かれは今年四十一歳で譜代の家来であった。
「先《せん》殿様の御代《おだい》から、かつて左様な噂を承ったことはござりませぬ。父からも何の話も聞き及びませぬ」
彼は即座に云い切った。それから若党《わかとう》や中間《ちゅうげん》どもを調べたが、かれらは新参の渡り者で、勿論なんにも知らなかった。次に女中共も調べられたが、かれらは初めてそんな話を聞かされて唯ふるえ上がるばかりであった。詮議はすべて不得要領に終った。
「そんなら池を浚《さら》ってみろ」と、小幡は命令した。お道の枕辺にあらわれる女が濡れているというのを手がかりに、或いは池の底に何かの秘密が沈んでいるのではないかと考えられたからであった。小幡の屋敷には百坪ほどの古池があった。
あくる日は大勢の人足をあつめて、その古池の掻掘《かいぼり》をはじめた。小幡も松村も立ち会って監視していたが、鮒《ふな》や鯉《こい》のほかには何の獲物もなかった。泥の底からは女の髪一と筋も見付からなかった。女の執念の残っていそうな櫛《くし》やかんざしのたぐいも拾い出されなかった。小幡の発議で更に屋敷内の井戸をさらわせたが、深い井戸の底からは赤い泥鰌《どじょう》が一匹浮び出て大勢を珍らしがらせただけで、これも骨折り損に終った。
詮議の蔓《つる》はもう切れた。
今度は松村の発議で、忌《いや》がるお道を無理にこの屋敷へ呼び戻して、お春と一緒にいつもの部屋に寝かすことにした。松村と小幡とは次の間に隠れて夜の更《ふ》けるのを待っていた。
その晩は月の陰《くも》った暖かい夜であった。神経の興奮し切っているお道は、とても安らかに眠られそうもなかったが、なんにも知らない幼い娘はやがてすやすやと寝ついたかと思うと、忽《たちま》ち針で眼球《めだま》でも突かれたようにけたたましい悲鳴をあげた。そうして「ふみが来た、ふみが来た」と、低い声で唸《うな》った。
「そら、来た」
待ち構えていた二人の侍は押っ取り刀でやにわに襖《ふすま》をあけた。閉め込んだ部屋のなかには春の夜のなまあたたかい空気が重く沈んで、陰ったような行燈《あんどん》の灯はまたたきもせずに母子《おやこ》の枕もとを見つめていた。外からは風さえ流れ込んだ気配が見えなかった。お道はわが子を犇《ひし》と抱きしめて、枕に顔を押しつけていた。
現在にこの生きた証拠を見せつけられて、松村も小幡も顔を見合わせた。それにしても自分たちの眼にも見えない闖入者《ちんにゅうしゃ》の名を、幼いお春がどうして知っているのであろう。それが第一の疑問であった。小幡はお春をすかしていろいろに問いただしたが、年弱《としよわ》の三つでは碌々《ろくろく》に口もまわらないので、ちっとも要領を得なかった。濡れた女はお春の小さい魂に乗りうつって、自分の隠れた名を人に告げるのではないかとも思われた。刀を持っていた二人もなんだか薄気味悪くなって来た。
用人の五左衛門も心配して、あくる日は市ヶ谷で有名な売卜者《うらないしゃ》をたずねた。売卜者は屋敷の西にある大きい椿の根を掘ってみろと教えた。とりあえずその椿を掘り倒してみたが、その結果はいたずらに売卜者の信用をおとすに過ぎなかった。
夜はとても眠れないというので、お道は昼間寝床にはいることにした。おふみもさすがに昼は襲って来なかった。これで少しはほっ[#「ほっ」に傍点]としたものの、武家の妻が遊女かなんぞのように、夜は起きていて昼は寝る、こうした変則の生活状態をつづけてゆくのは甚だ迷惑でもあり、且《かつ》は不便でもあった。なんとかして永久にこの幽霊を追いはらってしまうのでなければ、小幡一家の平和を保つことは覚束《おぼつか》ないように思われた。併しこんなことが世間に洩れては家の外聞にもかかわるというので、松村も勿論秘密を守っていた。小幡も家来どもの口を封じて置いた。それでも誰かの口から洩れたとみえて、けしからぬ噂がこの屋敷に出入りする人々の耳にささやかれた。
「小幡の屋敷に幽霊が出る。女の幽霊が出るそうだ」
蔭では尾鰭《おひれ》をつけていろいろの噂をするものの、武士と武士との交際では、さすがに面と向って幽霊の詮議をする者もなかったが、その中に唯一人、すこぶる無遠慮な男があった。それが即《すなわ》ち小幡の屋敷の近所に住んでいるKのおじさんで、おじさんは旗本の次男であった。その噂を聴くと、すぐに小幡の屋敷に押し掛けて行って、事の実否《じっぴ》を確かめた。
前へ
次へ
全9ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング