うと》の面倒があるでは無し、主人の小幡は正直で物柔らかな人物。小身ながらも無事に上《かみ》の御用も勤めている。なにが不足で暇を取りたいのか」
 叱っても諭《さと》しても手応《てごた》えがないので、松村も考えた。よもやとは思うものの世間にためしが無いでもない。小幡の屋敷には若い侍がいる。近所となりの屋敷にも次三男の道楽者がいくらも遊んでいる。妹も若い身空であるから、もしや何かの心得違いでも仕出来《しでか》して、自分から身をひかなければならないような破滅に陥ったのではあるまいか。こう思うと、兄の詮議はいよいよ厳重になった。どうしてもお前が仔細を明かさなければ、おれの方にも考えがある。これから小幡の屋敷へお前を連れて行って、主人の眼の前で何もかも云わしてみせる。さあ一緒に来いと、襟髪《えりがみ》を取らぬばかりにして妹を引立てようとした。
 兄の権幕《けんまく》があまり激しいので、お道もさすがに途方に暮れたらしく、そんなら申しますと泣いてあやまった。それから彼女が泣きながら訴えるのを聞くと、松村はまた驚かされた。
 事件は今から七日前、娘のお春が三つの節句の雛《ひな》を片付けた晩のことであった。お道の枕もとに散らし髪の若い女が真っ蒼な顔を出した。女は水でも浴びたように、頭から着物までびしょ濡《ぬ》れになっていた。その物腰は武家の奉公でもしたものらしく、行儀よく畳に手をついてお辞儀していた。女はなんにも云わなかった。また別に人をおびやかすような挙動も見せなかった。ただ黙っておとなしく其処《そこ》にうずくまっているだけのことであったが、それが譬《たと》えようもないほどに物凄《ものすご》かった。お道はぞっ[#「ぞっ」に傍点]として思わず衾《よぎ》の袖にしがみ付くと、おそろしい夢は醒《さ》めた。
 これと同時に、自分と添い寝をしていたお春もおなじく怖い夢にでもおそわれたらしく、急に火の付くように泣き出して、「ふみが来た。ふみが来た」と、つづけて叫んだ。濡れた女は幼い娘の夢をも驚かしたらしい。お春が夢中で叫んだふみ[#「ふみ」に傍点]というのは、おそらく彼女の名であろうと想像された。
 お道はおびえた心持で一夜を明かした。武家に育って武家に縁付いた彼女は、夢のような幽霊ばなしを人に語るのを恥じて、その夜の出来ごとは夫にも秘していたが、濡れた女は次の夜にも、又その次の夜にも彼女の枕もと
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