にお春はおそわれたように叫んだ。
「ふみが来た!」
明くる晩もまた叫んだ。
「ふみが来た!」
飛んだことをしたと後悔して、お道は早々にかの草双紙を返してしまった。お春は三晩つづいてお文の名を呼んだ。後悔と心配とで、お道も碌々に眠られなかった。そうして、これが彼《か》の恐ろしい禍いの来る前触れではないかとも恐れられた。彼女の眼の前にも、お文の姿がまぼろしのように現われた。
お道もとうとう決心した。自分の信じている住職の教えにしたがって、ここの屋敷を立ち退くよりほかはないと決心した。無心の幼児《おさなご》がお文の名を呼びつづけるのを利用して、かれは俄《にわか》かに怪談の作者となった。その偽りの怪談を口実にして、夫の家を去ろうとしたのであった。「馬鹿な奴め」と、小幡は自分の前に泣き伏している妻を呆《あき》れるように叱った。しかし、こんな浅はかな女の企みの底にも、人の母として我が子を思う愛の泉のひそんで流れていることを、Kのおじさんも認めないわけには行かなかった。おじさんの取りなしで、お道はようように夫のゆるしを受けた。
「こんなことは義兄《あに》の松村にも聞かしたくない。しかし義兄の手前、屋敷中の者どもの手前、なんとかおさまりを付けなければなるまいが、どうしたものでござろう」
小幡から相談をうけてKのおじさんも考えた。結局、おじさんの菩提寺の僧を頼んで、表向きは得体《えたい》の知れないお文の魂のための追善供養を営むということにした。お春は医師の療治をうけて夜|啼《な》きをやめた。追善供養の功力《くりき》によって、お文の幽霊もその後は形を現わさなくなったと、まことしやかに伝えられた。
その秘密を知らない松村彦太郎は、世の中には理屈で説明のできない不思議なこともあるものだと首をかしげて、日頃自分と親しい二、三の人達にひそかに話した。わたしの叔父もそれを聴いた一人であった。
お文の幽霊を草双紙のなかから見つけ出した半七の鋭い眼力を、Kのおじさんは今更のように感服した。浄円寺の住職はなんの目的でお道に恐ろしい運命を予言したか、それに就いては半七も余り詳しい註釈を加えるのを憚《はばか》っているらしかったが、それから半年の後にその住職は女犯《にょぼん》の罪で寺社方の手に捕らわれたのを聴いて、お道は又ぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。彼女は危い断崖の上に立っていたのを、幸いに
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