なかには春の夜のなまあたたかい空気が重く沈んで、陰ったような行燈《あんどん》の灯はまたたきもせずに母子《おやこ》の枕もとを見つめていた。外からは風さえ流れ込んだ気配が見えなかった。お道はわが子を犇《ひし》と抱きしめて、枕に顔を押しつけていた。
現在にこの生きた証拠を見せつけられて、松村も小幡も顔を見合わせた。それにしても自分たちの眼にも見えない闖入者《ちんにゅうしゃ》の名を、幼いお春がどうして知っているのであろう。それが第一の疑問であった。小幡はお春をすかしていろいろに問いただしたが、年弱《としよわ》の三つでは碌々《ろくろく》に口もまわらないので、ちっとも要領を得なかった。濡れた女はお春の小さい魂に乗りうつって、自分の隠れた名を人に告げるのではないかとも思われた。刀を持っていた二人もなんだか薄気味悪くなって来た。
用人の五左衛門も心配して、あくる日は市ヶ谷で有名な売卜者《うらないしゃ》をたずねた。売卜者は屋敷の西にある大きい椿の根を掘ってみろと教えた。とりあえずその椿を掘り倒してみたが、その結果はいたずらに売卜者の信用をおとすに過ぎなかった。
夜はとても眠れないというので、お道は昼間寝床にはいることにした。おふみもさすがに昼は襲って来なかった。これで少しはほっ[#「ほっ」に傍点]としたものの、武家の妻が遊女かなんぞのように、夜は起きていて昼は寝る、こうした変則の生活状態をつづけてゆくのは甚だ迷惑でもあり、且《かつ》は不便でもあった。なんとかして永久にこの幽霊を追いはらってしまうのでなければ、小幡一家の平和を保つことは覚束《おぼつか》ないように思われた。併しこんなことが世間に洩れては家の外聞にもかかわるというので、松村も勿論秘密を守っていた。小幡も家来どもの口を封じて置いた。それでも誰かの口から洩れたとみえて、けしからぬ噂がこの屋敷に出入りする人々の耳にささやかれた。
「小幡の屋敷に幽霊が出る。女の幽霊が出るそうだ」
蔭では尾鰭《おひれ》をつけていろいろの噂をするものの、武士と武士との交際では、さすがに面と向って幽霊の詮議をする者もなかったが、その中に唯一人、すこぶる無遠慮な男があった。それが即《すなわ》ち小幡の屋敷の近所に住んでいるKのおじさんで、おじさんは旗本の次男であった。その噂を聴くと、すぐに小幡の屋敷に押し掛けて行って、事の実否《じっぴ》を確かめた。
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