子供らしい態度が、をぢさんの眼には可笑く見えたらしい。彼はしばらく默つてにやにや笑つてゐた。
「そんなら話して聞かせるが、怖くつて家《うち》へ歸られなくなつたから、今夜は泊めて呉れなんて云ふなよ。」
先づかう嚇《おど》して置いて、をぢさんはおふみの一件といふのを徐《しず》かに話し出した。
「わたしが丁度|二十歳《はたち》の時だから、元治元年――京都では蛤御門《はまぐりごもん》の戰《いくさ》があつた年のことだと思へ。」と、をぢさんは先づ冒頭《まくら》を置いた。
その頃この番町に松村彦太郎といふ三百石の旗本が屋敷を持つてゐた。松村は相當に學問もあり、殊に蘭學が出來たので、外國掛《がいこくがかり》の方へ出仕《しゅつし》して、鳥渡《ちょつと》羽振の好い方であつた。その妹のお道といふのは、四年前に小石川西江戸川端の小幡《おばた》伊織といふ旗本の屋敷へ縁付いて、お春といふ今年三つの娘まで儲けた。
すると、ある日のことであつた。そのお道がお春を連れて兄のところへ訪ねて來て、「もう小幡の屋敷にはゐられませんから、暇を貰つて頂きたうございます。」と、突然に飛んだことを云ひ出して、兄の松村をおどろかした。兄はその仔細を聞き糺《ただ》したが、お道は蒼い顔をしてゐるばかりで何も云はなかつた。
「云はないで濟む譯《わけ》のものでない、その仔細をはつきりと云へ。女が一旦他家へ嫁入りをした以上は、むやみに離縁なぞすべきものでも無し、されるべき筈のものでもない。唯だしぬけに暇を取つてくれでは判らない。その仔細をよく聞いた上で、兄にも成程と得心《とくしん》がまゐつたら、又掛合ひのしやうもあらう。仔細を云へ。」
この場合、松村でなくても、先づかう云ふより外はなかつたが、お道は強情に仔細を明かさなかつた。もう一日もあの屋敷にはゐられないから暇を貰つてくれと、今年二十一になる武家の女房がまるで駄々つ子のやうに、たゞ同じことばかり繰返してゐるので、堪忍強い兄もしまひには悶《じ》れ出した。
「馬鹿、考へてもみろ、仔細も云はずに暇を貰いに行けると思ふか。また、先方でも承知すると思ふか。きのふや今日《けふ》嫁に行つたのでは無し、もう足掛け四年にもなり、お春といふ子までもある。舅《しうと》小姑《こじうと》の面倒があるでは無し、主人の小幡は正直で物柔かな人物。小身ながらも無事に上《かみ》の御用も勤めてゐる。なにが不足で暇を取りたいのか。」
叱つても諭《さと》しても手堪《てごた》へがないので、松村も考へた。よもやとは思ふものゝ世間にためしが無いでもない。小幡の屋敷には若い侍がゐる。近所|隣《となり》の屋敷にも次三男の道樂者がいくらも遊んでゐる。妹も若い身空であるから、もしや何かの心得違ひでも仕出來《しでか》して、自分から身を退かなければならないやうな破滅に陥つたのではあるまいか。かう思ふと、兄の詮議はいよいよ嚴重になつた。どうしてもお前が仔細を明かさなければ、おれの方にも考へがある。これから小幡の屋敷へお前を連れて行つて、主人の目の前で何も彼も云はしてみせる。さあ一緒に來いと、襟髪《えりがみ》を取らぬばかりにして妹を引き立てようとした。
兄の權幕《けんまく》があまり激しいので、お道も流石《さすが》に途方に暮れたらしく、そんなら申しますと泣いて謝つた。それから彼女が泣きながら訴へるのを聞くと、松村は又驚かされた。
事件は今から七日前、娘のお春が三つの節句の雛を片附けた晩のことであつた。お道の枕もとに散らし髪の若い女が眞蒼な顔を出した。女は水でも浴びたやうに、頭から着物までびしよ濡れになつてゐた。その物腰は武家の奉公でもしたものらしく、行儀よく疊に手をついてお辭儀してゐた。女はなんにも云はなかつた。また別に人を脅かすやうな擧動も見せなかつた。たゞ默つておとなしく其處《そこ》にうづくまつてゐるだけのことであつたが、それが譬《たと》へやうもないほどに物凄かつた。お道はぞつ[#「ぞつ」に傍点]として思はず衾《よぎ》の袖に獅噛《しが》み付くと、おそろしい夢は醒めた。
これと同時に、自分と添寢をしてゐたお春も同じく怖い夢にでもおそはれたらしく、急に火の付くやうに泣き出して、「ふみが來た。ふみが來た。」と續《つづ》けて叫んだ。濡れた女は幼い娘の夢をも驚かしたらしい。お春が夢中に叫んだふみ[#「ふみ」に傍点]といふのは、おそらく彼女の名であらうと想像された。
お道は悸《おび》えた心持で一夜を明した。武家に育つて武家に縁付いた彼女は、夢のやうな幽靈話を人に語るのを恥ぢて、その夜の出來事は夫にも祕してゐたが、濡れた女は次の夜にも又その次の夜にも彼女の枕もとに眞蒼な顔を出した。その度《たび》ごとに幼いお春も「ふみが來た」と同じく叫んだ。氣の弱いお道はもう我慢が出來なくなつたが、それでも
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