夫に打ちあける勇氣はなかつた。
斯ういふことが四晩もつゞいたので、お道も不安と不眠とに疲れ果てゝしまつた。恥も遠慮も考へてはゐられなくなつたので、たうとう思ひ切つて夫に訴へると、小幡は笑つてゐるばかりで取合はなかつた。しかし濡れた女はその後もお道の枕邊《まくらべ》を去らなかつた。お道がなんと云つても、夫は受付けて呉れなかつた。しまひには「武士の妻にもあるまじき」と云ふやうな意味で機嫌を惡くした。
「いくら武士でも、自分の妻が苦しんでゐるのを笑つて觀《み》てゐる法はあるまい。」
お道は夫の冷淡な態度を恨むやうにもなつて來た。かうした苦しみがいつまでも續いたら、自分は遲かれ速かれ得體《えたい》の知れない幽靈のために責め殺されてしまふかも知れない。もう斯うなつたら娘をかゝへて一刻《いつとき》も早くこんな化物屋敷を逃げ出すよりほかはあるまいと、お道はもう夫のことも自分のことも振返つてゐる餘裕がなくなつた。
「さういふ譯でございますから、あの屋敷にはどうしてもゐられません。お察し下さい。」
思ひ出してもぞつ[#「ぞつ」に傍点]とすると云ふやうに、お道は此話をする間にも時々に息を嚥《の》んで身ををのゝかせてゐた。そのおどおどしてゐる眼の色がいかにも僞りを包んでゐるやうには見えないので、兄は考へさせられた。
「そんな事がまつたくあるか知らん。」
どう考へてもそんなことが有りさうにも思はれなかつた。小幡が取合はないのも無理はないと思つた。松村も「馬鹿をいへ」と、頭から叱りつけてしまはうかとも思つたが、妹がこれほどに思ひ詰めてゐるものを唯一概に叱つて追ひやるのも何だか可哀想のやうでもあつた。殊に妹はこんなことを云ふものの、この事件の底にはまだ他になにかこみいつた事情が潜んでゐないとも限らない。いづれにしても小幡に一度逢つた上で、よくその事情を確かめてみようと決心した。
「お前の片口《かたくち》ばかりでは判らん。兎もかくも小幡に逢つて、先方の了簡を訊いてみよう、萬事はおれに任しておけ。」
妹を自分の屋敷に殘して置いて、松村は草履取一人を連れて、すぐに西江戸川端に出向いた。
二
小幡の屋敷へゆく途中でも松村は色々に考へた。妹はいはゆる女子供のたぐひで固《もと》より論にも及ばぬが、自分は男一匹、しかも大小をたばさむ身の上である。武士と武士との掛合ひに、眞顔に
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