半七捕物帳
お文の魂
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)不入《いらず》の間
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)丁度|二十歳《はたち》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]
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一
わたしの叔父は江戸の末期に生れたので、その時代に最も多く行はれた化物屋敷の不入《いらず》の間や、嫉み深い女の生靈《いきりやう》や、執念深い男の死靈や、さうしたたぐひの陰慘な幽怪な傳説を澤山《たくさん》に知つてゐた。しかも叔父は「武士たるものが妖怪などを信ずべきものでない。」といふ武士的教育の感化から、一切これを否認しようと努めてゐたらしい。その氣風は明治以後になつても失せなかつた。わたし達が子供のときに何か取留めのない化物話などを始めると、叔父はいつでも苦《にが》い顏をして碌々《ろくろく》に相手にもなつて呉れなかつた。
その叔父が唯一度こんなことを云つた。
「併し世の中には解らないことがある。あのおふみの一件なぞは……。」
おふみの一件が何であるかは誰も知らなかつた。叔父も自己の主張を裏切るやうな、この不可解の事實を發表するのが如何にも殘念であつたらしく、それ以上には何も祕密を洩さなかつた。父に訊《き》いても話してくれなかつた。併しその事件の蔭にはKのをぢさんが潜んでゐるらしいことは、叔父の口ぶりに因《よ》つて略《ほ》ぼ想像されたので、わたしの稚い好奇心は到頭《たうとう》わたしを促《うなが》してKのをぢさんのところへ奔《はし》らせた。私はその時まだ十二であつた。Kのをぢさんは、肉縁の叔父ではない。父が明治以前から交際してゐるので、わたしは稚い時から此人ををぢさんと呼び慣はしてゐたのである。
わたしの質問に對して、Kのをぢさんも滿足な返答をあたへて呉《く》れなかつた。
「まあ、そんなことは何《ど》うでも可い。つまらない化物の話なんぞすると、お父さんや叔父さんに叱られる。」
ふだんから話好きのをぢさんもこの問題については堅く口を結んでゐるので、わたしも押返して詮索する手がかりが無かつた。學校で毎日のやうに物理學や數學をどしどし詰め
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