《くち》をいれました。
「なぜだか判らない。」と、山岸は思いありげに答えました。「しかし判らないながらも、なんだか判ったような気もするので、わたしもいよいよ思い切って東京をひきあげて、年内に帰国するつもりです。父はF町の近在に相当の土地を所有している筈だから、草花でも作って、晩年を送る気になったのかも知れない。わたしも父と一緒に園芸でもやってみるか、それとも何か他の仕事に取りかかるか、それは帰郷の上でゆっくり考えようと思っているんです。」
わたしは急にさびしいような、薄暗い心持になりました。どんな事情があるのか知れないが、父も弁護士を廃業する、その子も弁護士試験を断念して帰る。それだけでも聞く者のこころを暗くさせるのに、さらに現在のわたしとしては、自分が平素尊敬している先輩に捨てて行かれるのが、いかにも頼りないような寂しい思いに堪えられないので、黙って俯向いてその話を聞いていると、山岸は又言いました。
「今夜の話はこの場かぎりで、当分は誰にも秘密にしておいてくれたまえ。いいかい。奥さんにも伊佐子さんにも暫く黙っていてくれたまえ。」
奥さんはともあれ、伊佐子さんがこれを知ったら定めて驚くことであろうと、わたしは気の毒に思いましたが、この場合、かれこれ言うべきではありませんから、山岸の言うがままに承諾の返事をして置きました。
お代りの蒲焼は二人ともにちっとも箸をつけなかったので、残して行くのも勿体ないといって、その二人前を折詰にして貰うことにしました。それは伊佐子さんへのお土産にするのだと、山岸は言っていました。熊手と唐の芋と、うなぎの蒲焼と、重ね重ねのおみやげを貰って、なんにも知らない伊佐子さんはどんなに喜ぶことかと思うと、わたしはいよいよ寂しいような心持になりました。
表へ出ると、木枯しとでも言いそうな寒い風が、さっきよりも強く吹いていました。宿へ帰るまで二人は黙って歩きました。
四
おみやげの品々を貰って、伊佐子さんは果して大喜びでした。奥さんも喜んでいました。その呉れ手が山岸であるだけに、伊佐子さんは一層嬉しく感じたのであろうと思うと、わたしは気の毒を通り越して、なんだか悲しいような心持になって来たので、そうそうに挨拶して、自分の部屋へはいってしまいました。
堀川の家で止宿人にあたえている部屋は、二階に五間、下に二間という間取りで、山岸は下の六畳に、わたしは二階の東の隅の四畳半に陣取っているのでした。東の隅といっても、東側には隣りの二階家が接近しているので、一間の肱かけ窓は北の往来にむかって開かれているのですから、これからは日当りの悪い、寒い部屋になるのです。今夜のような風の吹く晩には、窓の戸をゆする音を聞くだけでも夜の寒さが身に沁みます。もう勉強する元気もないので、私はすぐに冷たい衾《よぎ》のなかにもぐり込みましたが、何分にも眼が冴えて眠られませんでした。いや、眠られないのがあたりまえかとも思いました。
わたしは今夜の話をそれからそれへと繰返して考えました。髪の白い女というのは、いったい何者であろうかとも考えました。山岸はそれを幽霊と信じてしまったらしいが、さっきも言う通り、白昼衆人のあいだに幽霊が姿をあらわすなどというのは、どうしても私には信じられないことでした。しかも山岸が彼の父にむかってその話を洩らしたときに、父の態度に怪しむべき点を発見したらしい事を考えると、父には何か思いあたる節《ふし》があるのかとも察せられます。ことに父も今年かぎりで弁護士を廃業するから、山岸にも受験を断念しろという。それには勿論、なにかの子細がなければならない。それから綜合して考えると、これは弁護士という職業に関連した一種の秘密であるらしい。山岸は詳しいことを明かさないが、今度の父の手紙にはその秘密を洩らしてあるのかも知れない。そこで彼もとうとう我《が》を折って、にわかに帰郷することになったのかも知れない。
わたしの空想はだんだんに拡がって来ました。山岸の父は職業上、ある訴訟事件の弁護をひき受けた。刑事ではあるまい、おそらく民事であろう。それが原告であったか、被告であったか知らないが、ともかくも裁判の結果が、ある婦人に甚だしい不利益をあたえることになった。その婦人は、髪の白い人であった。彼女《かれ》はそれがために自殺したか、悶死したか、いずれにしても山岸の父を呪いつつ死んだ。その恨みの魂がまぼろしの姿を試験場にあらわして、彼の子たる山岸を苦しめるのではあるまいか。
こう解釈すれば、怪談としてまずひと通りの筋道は立つわけですが、そんな小説めいた事件が実際にあり得るものかどうかは、大いなる疑問であると言わなければなりません。
さっき聞き落したのですが、一体その髪の白い女は試験場にかぎって出現するのか、あるいは平生でも山岸の前に姿をみせるのか、それを詮議しなければならない事です。山岸の口ぶりでは、平生は彼女と没交渉であるらしく思われるのですが、それも機会を見てよく確かめて置かなければなりません。そんなことをいろいろ考えているうちに、近所の米屋で、一番鶏の歌う声がきこえました。
あくる朝はゆうべの風のためか、にわかに冬らしい気候になりました。一夜をろくろく眠らずに明かした私は、けさの寒さが一層こたえるようでしたが、それでも朝飯をそうそうに食って、いつもの通りに学校へ出て行きました。その頃には風もやんで、青空が高く晴れていました。
留守のあいだに何事か起っていはしないかと、一種の不安をいだきながら、午後に学校から帰って来ますと、堀川の一家にはなんにも変った様子もなく、伊佐子さんはいつもの通りに働いています。山岸も自分の部屋で静かに読書しているようです。私はまずこれで安心していると、午後六時ごろに伊佐子さんがわたしの部屋へ夕飯の膳を運んで来ました。このごろの六時ですから、日はすっかり暮れ切って、狭い部屋には電燈のひかりが満ちていました。
「きょうは随分お寒うござんしたね。」と、伊佐子さんは言いました。平生から蒼白い顔のいよいよ蒼ざめているのが、わたしの眼につきました。
「ええ、今からこんなに寒くなっちゃやりきれません。」
いつもは膳と飯櫃《めしびつ》を置いて、すぐに立ちさる伊佐子さんが、今夜は入口に立て膝をしたままで又話しかけました。
「須田さん。あなたはゆうべ、山岸さんと一緒にお帰りでしたね。」
「ええ。」と、わたしは少しあいまいに答えました。この場合、伊佐子さんから山岸のことを何か聞かれては困ると思ったからです。
「山岸さんは何かあなたに話しましたか。」と、果して伊佐子さんは訊きはじめました。
「何かとは……。どんな事です。」
「でも、この頃は山岸さんのお国からたびたび電報がくるんですよ。今月になっても、一週間ばかりのうちに三度も電報が来ました。そのあいだに郵便も来ました。」
「そうですか。」と、私はなんにも知らないような顔をしていました。
「それには何か、事情があるんだろうと思われますが……。あなたはなんにもご承知ありませんか。」
「知りません。」
「山岸さんはゆうべなんにも話しませんでしたか。わたしの推量では、山岸さんはもうお国の方へ帰ってしまうんじゃないかと思うんですが……。そんな話はありませんでしたか。」
わたしは少しぎょっとしましたが、山岸から口止めをされているんですから、迂濶《うかつ》におしゃべりは出来ません。それを見透かしているように、伊佐子さんはひと膝すりよって来ました。
「ねえ。あなたは平生から山岸さんと特別に仲よく交際しておいでなさるんですから、あの人のことについて何かご存じでしょう。隠さずに教えてくださいませんか。」
これは伊佐子さんとして無理からぬ質問ですが、その返事には困るのです。一つ家に住んでいながら、一体この伊佐子さんと山岸との関係がどのくらいの程度にまで進んでいるのか、それを私はよく知らないので、こういう場合にはいよいよ返事に困るのです。しかし山岸との約束がある以上、わたしは心苦しいのを我慢して、あくまで知らない知らないを繰返しているのほかはありません。そのうちに伊佐子さんの顔色はますます悪くなって、飛んでもないことを言い出しました。
「あの、山岸さんという人は怖ろしい人ですね。」
「なにが怖ろしいんです。」
「ゆうべお土産だといって、うなぎの蒲焼をくれたでしょう。あれが怪しいんですよ。」
伊佐子さんの説明によると、ゆうべあの蒲焼を貰った時はもう夜が更けているので、あした食うことにして台所の戸棚にしまっておいた。この近所に大きい黒い野良猫がいる。それがきょうの午前中に忍び込んできて、女中の知らない間に蒲焼の一と串をくわえ出して、裏手の掃溜《はきだめ》のところで食っていたかと思うと、口から何か吐き出して死んでしまった。猫は何かの毒に中《あた》ったらしいというのです。
こうなると、わたしも少しく係合いがあるような気がして、そのまま聞き捨てにはならないことになります。
「猫はまったくそのうなぎの中毒でしょうか。」と、私は首をかしげました。「そうして、ほかの鰻はどうしました。」
「なんだか気味が悪うござんすから、母とも相談して、残っていた鰻もみんな捨てさせてしまいました。熊手も毀《こわ》して、唐の芋も捨ててしまいました。」
「しかし現在、その鰻を食ったわれわれは、こうして無事でいるんですが……。」
「それだからあの人は怖ろしいと言うんです。」と、伊佐子さんの眼のひかりが物凄くなりました。「おみやげだなんて親切らしいことを言って、わたし達を毒殺しようと巧《たく》らんだのじゃないかと思うんです。さもなければ、あなた方の食べた鰻には別条がなくって、わたし達に食べさせる鰻には毒があるというのが不思議じゃありませんか。」
「そりゃ不思議に相違ないんですが……。それはあなた方の誤解ですよ。あの鰻は最初からお土産にするつもりで拵えたのじゃあない、われわれの食う分が自然に残って、おみやげになったんですから……。わたしは始終一緒にいましたけれど、山岸さんが毒なぞを入れたような形跡は決してありません。それはわたしが確かに保証します。鰻がひと晩のうちにどうかして腐敗したのか、あるいは猫が他の物に中毒したのか、いずれにしても山岸さんや私には全然無関係の出来事ですよ。」
わたしは熱心に弁解しましたが、伊佐子さんはまだ疑っているような顔をして、成程そうかとも言わないばかりか、いつまでもいやな顔をして睨んでいるので、わたしは甚だしい不快を感じました。
「あなたはどうしてそんなに山岸さんを疑うんですか。単に猫が死んだというだけのことですか、それともほかに理由があるんですか。」と、わたしは詰問するように訊きました。
「ほかに理由がないでもありません。」
「どんな理由ですか。」
「あなたには言われません。」と、伊佐子さんはきっぱりと答えました。余計なことを詮議するなというような態度です。
わたしはいよいよむっとしましたが、俄かにヒステリーになったような伊佐子さんを相手にして、議論をするのも無駄なことだと思い返して、黙ってわきを向いてしまいました。そのときあたかも下の方から奥さんの呼ぶ声がきこえたので、伊佐子さんも黙って出て行きました。
ひとりで飯を食いながら、わたしはまた考えました。余の事とは違って、仮りにも毒殺などとは容易ならぬことです。伊佐子さんばかりでなく、奥さんまでが本当にそう信じているならば、山岸のために進んでその寃《えん》をすすぐのが自分の義務であると思いました。それにしても、本人の山岸はそんな騒ぎを知っているのかどうか、まずそれを訊きただしておく必要があるとも考えたので、飯を食ってしまうとすぐに二階を降りて山岸の部屋へたずねていくと、山岸はわたしよりもさきに夕飯をすませて、どこへか散歩に出て行ったということでした。
わたしも頭がむしゃくしゃして、再び二階の部屋へもどる気にもなれなかったので、何がなしに表へふらりと出てゆくと、そのうしろ姿をみて、奥さんがあとから追って来ました
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