子さんからなんにも言われたこともなく、わたしからもなんにも言ったことはありません。」
 奥さんもこう申立てたそうです。
「娘が山岸さんを恋しがっているらしいのは、わたくしも薄々察しておりまして、もし出来るものならば、娘の望みどおりにさせてやりたいと願っておりましたが、二人のあいだに何かの関係があったとは思われません。」
 ふたりの申口が符合しているのをみると、伊佐子さんは単に山岸の帰郷を悲観して、いわゆる失恋自殺を遂げたものと認めるのほかないことになりました。猫を殺したのも伊佐子さんの仕業で、劇薬の効き目を試すために、わざと鰻に塗りつけて猫に食わせたのであろうと想像されました。猫の死骸を解剖してみると、その毒は伊佐子さんが飲んだものと同一であったそうです。
 ただ判りかねるのは、伊佐子さんがなぜあの猫の死を証拠にして、山岸が自分たち親子を毒殺しようと企てたなどと騒ぎ立てたかということですが、それも失恋から来た一種のヒステリーであるといえばそれまでのことで、深く詮議する必要はなかったのかも知れません。
 そんなわけで、山岸は無事に警察から還されて、この一件はなんの波瀾をもまき起さずに落着《らくちゃく》しました。ただここに一つ、不思議ともいえばいわれるのは、伊佐子さんの死骸の髪の毛が自然に変色して、いよいよ納棺というときには、老女のような白い髪に変ってしまったことです。おそらく劇薬を飲んだ結果であろうという者もありましたが、通夜の席上で奥さんはこんなことを話しました。
「あの晩、須田さんに別れて家へ帰りますと、伊佐子の姿はみえません。たった今、内へはいった筈だが、どこへ行ったのかと思いながら、茶の間の長火鉢のまえに坐る途端に、表へ自動車の停まるような音がきこえました。誰が来たのかと思っていると、それぎりで表はひっそりしています。はてな、どうも自動車が停まったようだがと、起って出てみると表にはなんにもいないのです。すこし不思議に思って、そこらを見まわしていると、女中があわてて駈け出して来て、大変だ大変だと言いますから、驚いて内へ引っ返すと、伊佐子は山岸さんの部屋のなかに倒れていました。」
 ほかの人たちは黙ってその話を聴いていました。山岸もだまっていました。私だけは黙っていられないような気がしたので、その自動車は……と、言おうとして、また躊躇しました。なんにも知らない奥さんの前で、余計なことを言わない方がよかろうと思ったからです。

 伊佐子さんの葬儀を終った翌日の夜行列車で、山岸は郷里のF町へ帰ることになったので、わたしは東京駅まで送って行きました。
 それは星ひとつ見えない、暗い寒い宵であったことを覚えています。待合室にいるあいだに、かの自動車の一件をそっと話しますと、山岸は唯うなずいていました。そのときに私は訊きました。
「髪の白い女というのは、あなたが試験場へはいった時だけに見えるんですか、そのほかの時にも見えるんですか。」
「堀川の家《うち》へ行ってからは、平生でも時々見えることがあります。」と、山岸は平気で答えました。「今だから言いますが、その女の顔は伊佐子さんにそっくりです。伊佐子さんは死んでから、その髪の毛が白くなったというが、わたしの眼には平生から真っ白に見えていましたよ。」
 わたしは思わず身を固くした途端に、発車を知らせるベルの音がきこえました。



底本:「異妖の怪談集 岡本綺堂伝奇小説集 其ノ二」原書房
   1999(平成11)年7月2日第1刷
初出:「文藝倶樂部」
   1928(昭和3)年8月
※「啄《くち》」と「喙《くち》」、「古老」と「故老」の混在は底本の通りとしました。
入力:網迫、土屋隆
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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