ですが……。そんな話はありませんでしたか。」
わたしは少しぎょっとしましたが、山岸から口止めをされているんですから、迂濶《うかつ》におしゃべりは出来ません。それを見透かしているように、伊佐子さんはひと膝すりよって来ました。
「ねえ。あなたは平生から山岸さんと特別に仲よく交際しておいでなさるんですから、あの人のことについて何かご存じでしょう。隠さずに教えてくださいませんか。」
これは伊佐子さんとして無理からぬ質問ですが、その返事には困るのです。一つ家に住んでいながら、一体この伊佐子さんと山岸との関係がどのくらいの程度にまで進んでいるのか、それを私はよく知らないので、こういう場合にはいよいよ返事に困るのです。しかし山岸との約束がある以上、わたしは心苦しいのを我慢して、あくまで知らない知らないを繰返しているのほかはありません。そのうちに伊佐子さんの顔色はますます悪くなって、飛んでもないことを言い出しました。
「あの、山岸さんという人は怖ろしい人ですね。」
「なにが怖ろしいんです。」
「ゆうべお土産だといって、うなぎの蒲焼をくれたでしょう。あれが怪しいんですよ。」
伊佐子さんの説明によると、ゆうべあの蒲焼を貰った時はもう夜が更けているので、あした食うことにして台所の戸棚にしまっておいた。この近所に大きい黒い野良猫がいる。それがきょうの午前中に忍び込んできて、女中の知らない間に蒲焼の一と串をくわえ出して、裏手の掃溜《はきだめ》のところで食っていたかと思うと、口から何か吐き出して死んでしまった。猫は何かの毒に中《あた》ったらしいというのです。
こうなると、わたしも少しく係合いがあるような気がして、そのまま聞き捨てにはならないことになります。
「猫はまったくそのうなぎの中毒でしょうか。」と、私は首をかしげました。「そうして、ほかの鰻はどうしました。」
「なんだか気味が悪うござんすから、母とも相談して、残っていた鰻もみんな捨てさせてしまいました。熊手も毀《こわ》して、唐の芋も捨ててしまいました。」
「しかし現在、その鰻を食ったわれわれは、こうして無事でいるんですが……。」
「それだからあの人は怖ろしいと言うんです。」と、伊佐子さんの眼のひかりが物凄くなりました。「おみやげだなんて親切らしいことを言って、わたし達を毒殺しようと巧《たく》らんだのじゃないかと思うんです。さもなけ
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