飲まないで、唯むやみに食うばかりです。蒲焼の代りを待っているあいだに、彼は静かに言い出しました。
「実はね、わたしは今年かぎりで郷里へ帰ろうかと思っていますよ。」
私はおどろきました。すぐには何とも言えないで、黙って相手の顔を見つめていると、山岸はすこしく容《かたち》をあらためました。
「甚だ突然で、君も驚いたかも知れないが、わたしもいよいよ諦めて帰ることにしました。どう考えても、弁護士という職業はわたしに縁がないらしい。」
「そんなことはないでしょう。」
「私もそんなことはないと思っていた。そんな筈はないと信じていた。幽霊がこの世にないと信じるのと同じように……。」
さっきも幽霊と言い、今もまた幽霊と言い出したのが、わたしの注意をひきました。しかし黙って聴いていると、彼は更にこんなことを言い出しました。
「君は幽霊を信じないと言いましたね。わたしも勿論、信じなかった。信じないどころか、そんな話を聴くと笑っていた。その私が幽霊に責められて、とうとう自分の目的を捨てなければならない事になったんですよ。幽霊を信じない君たちの眼から見れば、実にばかばかしいかも知れない。まあ、笑ってくれたまえ。」
わたしは笑う気にはなれませんでした。山岸の口からこんなことを聞かされる以上、それには相当の根拠がなければならない。といって、まさか幽霊などというものがこの世にあろうとは思われない。半信半疑でやはり黙っていると、山岸もまた黙って天井の電燈をみあげていました。広い二階に坐っているのはわれわれの二人ぎりで、隅々からにじみ出して来る夜の寒さが人に迫るようにも思われました。
しかし今夜もまだ九時ごろです、表には電車の往来するひびきが絶えずごうごうと聞えています。下では鰻を焼く団扇《うちわ》の音がぱたぱたと聞えます。思いなしか、頭の上の電燈が薄暗くみえても、床の間に生けてある茶の花の白い影がわびしく見えても、怪談らしい気分を深めるにはまだ不十分でした。もちろん山岸はそんなことに頓着する筈もない、ただ自分の言いたいだけの事を言えばいいのでしょう。やがて又向き直って話しつづけました。
「自分の口から言うのも何だが、わたしはこれまでに相当の勉強もしたつもりで、弁護士試験ぐらいはまず無事にパスするという自信を持っていたんですよ。うぬぼれかも知れないが、自分ではそう信じていたんです。」
「そり
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