四時)ごろに今戸の店へ帰ったが、途中から胸が苦しくなって、わが家へころげ込むと共に倒れた。家内の者もおどろき騒いで、すぐに近所の医者を呼びにやると、医者は暑気あたりの霍乱《かくらん》であろうと診察した。そういうことのない呪禁《まじない》に、きょうは黄粉の牡丹餅を食ったのであるが、その効のなかったのを人びとは嘆いた。医者もいろいろの手当てを加えたが、金助は明くる晦日の夜明け前にとうとう息を引取った。
 最初は霍乱と診立《みた》てた医者も、後には普通の暑気あたりではないらしいと言い出した。何かの食い物の中毒ではないかというのである。二十九日の出先は判っているので、中田屋ではそれぞれに問い合せの使を出したが、残暑の強い折柄であるから、どこでも茶のほかには何も出さなかった。但し午飯《ひるめし》はどこで食ったか判らなかった。延津弥のことは本人も秘密にしていたので、家族も知らなかった。
 閏七月二日の朝五つ時(午前八時)に金助の葬儀は小梅の菩提寺で営《いとな》まれた。その会葬者のうちに延津弥との関係を知っている者があって、中田屋の大将が死んでは師匠も困るだろう、お前さんがその後釜を引受けてはどうだなどと、冗談まじりに話していたのが、ふと町方《まちかた》の耳にはいった。
 それからだんだん探索すると、延津弥の一件が明白になったばかりでなく、金助が当日金龍山下をたずねた事も判った。まだその上に延津弥もその晩から暑気あたりで寝ているというのである。但し延津弥の病気は差したる重態でもなく、二、三日の後は起きられるであろうとの事であった。
 女中のお熊も調べられた。金助と延津弥が同時に発病したのを見ると、あるいはかの牡丹餅に何かの子細があるのではないかと疑われた。お熊もその残りを食ったのであるが、これには別条もなかった。ともかくもその牡丹餅は田原町の千鳥から貰って来たものであるというので、千鳥の女房お兼をはじめ、家内の者一同も代るがわるに取調べを受けた。当日の牡丹餅は他へ分配はしてはならないということになっているので、お熊が貰いに来た時に、お兼はいったん断ろうと思ったのであるが、千生さんのお指図によって来ましたというので、かれも辞《いな》みかねて十一ばかりの牡丹餅を持たせてやった。それから飛んだ引合いを食って、千鳥の店ではひどく迷惑した。もちろん千鳥の店の者は何の障りもなかったのである。
 殊におどろいたのは千生の長之助で、自分もどんな巻添《まきぞ》いを受けるかも知れないという恐怖から、七月二日以来、どこかへ身を隠してしまった。
 七月六日の暗い宵に、千鳥のお兼がそっと金龍山下の師匠をたずねた。お兼は四十三で、年よりも若いといわれていたのであるが、今度の一件と、それから惹《ひ》いて大事のひとり息子の家出の苦労で、わずか四、五日のうちにめっきり老《ふ》けて見えた。
 お熊は近所の湯屋へ行って留守であった。延津弥はきのうから起きたが、髪はまだ櫛巻きにして、顔の色も蒼ざめていた。知合いの仲であるから、お兼はすぐに通されたが、今夜の対面は双方とも余り快くなかった。お兼の方からまず口を切った。
「今度はおたがいさまに、飛んだ迷惑で困りました。そこで早速ですが、せがれの長之助はその後にこちらへ参りましたろうか。」
「いいえ。」と、延津弥は情《すげ》なく答えた。「二十九日から一度も見えませんよ。」
「ほんとうに参りませんか。」
「見えませんよ。千生さんだって、うっかりここの家へ顔出しも出来ないでしょうから。」と、延津弥は皮肉らしく言った。
「そうですか。」と、お兼はさらに声をひくめた。「世間というのは途方もないことを言い触らすもので……。家《うち》の長之助がおまえさんと肚《はら》を合せて、中田屋の旦那を毒害したなんて言う者がありますそうで……。」
「まあ。」と、延津弥は呆れたようにお兼の顔をながめた。
「よもやそんな事があろうとは思いませんけれども。」
「あたりまえですよ。」と、延津弥は蒼ざめた顔をいよいよ蒼くして、罵るように言った。「なんであたしが千生さんと肚を合せて……。お熊に訊いて御覧なさい。こっちが頼みもしないのに、千生さんの方から知恵を貸して、おまえさんの家からおはぎを貰わして……。千生さんにどんな巧みがあったか知りませんけれど、あたしはなんにも知りませんよ。もしあのおはぎに毒がはいっていて、中田屋の旦那は死に、あたしもこんな病気になったのなら、千生さんは人殺しの下手人ですよ……。」
「そりゃそうですが、世間では……。」
「世間がどういうんですよ。」
「今もお話し申した通り、おまえさんと肚をあわせて……。」
「なぜ肚を合せるんですよ。肚を合せて、ど、どうするというんですよ。」
 言いかけて、延津弥は何か思い付いたように又罵った。
「まあ、ばかばかしい。
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