廿九日の牡丹餅
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)悪疫《あくえき》が

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)浅草|金龍山《きんりゅうざん》下に
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     一

 六月末の新聞にこんな記事が発見された。今年は暑気が強く、悪疫《あくえき》が流行する。これを予防するには、家ごとに赤飯を炊《た》いて食えと言い出した者がある。それが相当に行われて、俄かに赤飯を炊いて疫病《やくびょう》よけをする家が少くないという。今日《こんにち》でも東京のまん中で、こんな非科学的のお呪禁《まじない》めいたことが流行するかと思うと、すこぶる不思議にも感じられるのであるが、文明国と称する欧米諸国にも迷信はある。いかに科学思想が発達しても、人間の迷信は根絶することは許されないのかも知れない。
 それに就いて、わたしはかつて故老から聞かされた江戸末期のむかし話を思い出した。
 それは安政元年七月のことである。この年には閏《うるう》があって、七月がふた月つづくことになる。それから言い出されたのであろうかとも思われるが、六月から七月にかけて、江戸市中に流言が行われた。ことしは残暑が長く、殊に閏の七月は残暑が例外に強い。その暑気をふせぐには、七月二十九日に黄粉《きなこ》の牡丹餅をこしらえて食うがよい。しかしそれを他家へ配ってはならない、家内親類奉公人などが残らず食いつくすに限る。そうすれば決して暑気あたりの患《わずら》いはないというのである。
 勿論その時代とても、すべての人がそれを信用するわけではなく、心ある者は一笑に付《ふ》して顧みなかったのであるが、そういうたぐいの流言は今日より多く行われ、多く信じられた。しかもその日は二十九日と限られ、江戸じゅうの家々が一度に牡丹餅をこしらえる事になったので、米屋では糯米《もちごめ》が品切れになり、粉屋《こなや》では黄粉を売切ってしまった。自分の家でこしらえる事の出来ないものは、牡丹餅屋へ買いに行くので、その店もまた大繁昌であった。

「困ったね。どうしたらよかろう。」
 女にしては力《りき》んだ眉をひそめて、団扇《うちわ》を片手に低い溜息をついたのは、浅草|金龍山《きんりゅうざん》下に清元《きよもと》の師匠の御神燈《ごしんとう》をかけている清元|延津弥《のぶつや》であった。延津弥はことし二十七であるが、こういう稼業にありがちの女世帯で、お熊という小女《こおんな》と二人暮しであるために、二十九日の朝になっても、かの牡丹餅をこしらえるすべがない。あいにく近所に牡丹餅屋もない。
 こうと知ったら、きのうのうちに三町ほど先の牡丹餅屋にあつらえて置けばよかったが、まさかに売切れることもあるまいと多寡《たか》をくくっていたのが今更に悔まれた。遊芸《ゆうげい》の師匠であるから、世間の人よりも起きるのがおそい。お熊が朝の仕事を片付けて、それから牡丹餅を買いに出ると、店は案外の混雑で、もう売切れであると断られた。お熊は手をむなしくして帰って来ると、延津弥は顔をしかめた。こうなると自然の人情で、どうしても牡丹餅を食わなければならないように思われて来た。世間の人たちがそれほど競って食うなかで、自分ひとりが食わなかったならば、どんな禍《わざわ》いを受けるかも知れないと恐れられた。
「ほかにどこか売っている家はないかねえ。」
 金龍山の牡丹餅は有名であるが、ここはしょせん駄目《だめ》であろうと、かれらも最初から諦めていたのである。しかもこの上はともかくも金龍山へ行ってみて、そこでお断りを食ったらば、広小路の方へ行って探してみたらよかろうということになった。
「暑いのにお気の毒だが、急いで行って来ておくれよ。また売切れてしまうと困るから……。」と、延津弥は頼むように言った。
「はい。行ってまいります。」
 お熊は直ぐに出て行った。けさももう五つ半(午前九時)過ぎで、聖天《しょうでん》の森では蝉の声が暑そうにきこえた。正直な小女は日傘もささずに、金龍山下|瓦町《かわらまち》の家をかけ出して、浅草観音堂の方角へ花川戸の通りを急いで来ると、日よけの扇を額《ひたい》にかざした若い男に出逢った。男は笑いながらお熊に声をかけた。
「暑いのに大急ぎで……。お使かえ。」
「おはぎを買いに……。」と、お熊は会釈《えしゃく》しながら答えた。
「ああ、そうか」と、男はまた笑った。「わたしも家で食べて来た。まだ口の端《はた》に黄粉が付いているかも知れねえ。」
 手の甲で口のまわりを撫でながら、男はやはりにやにや笑っていた。田原町《たわらまち》の蛇骨《じゃこつ》長屋のそばに千鳥という小料理屋がある。彼はその独り息子の長之助で、本来ならば父のない後の帳場に坐っているべきであるが、母親の甘いのを幸いに、肩揚げのおりないう
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