殊におどろいたのは千生の長之助で、自分もどんな巻添《まきぞ》いを受けるかも知れないという恐怖から、七月二日以来、どこかへ身を隠してしまった。
七月六日の暗い宵に、千鳥のお兼がそっと金龍山下の師匠をたずねた。お兼は四十三で、年よりも若いといわれていたのであるが、今度の一件と、それから惹《ひ》いて大事のひとり息子の家出の苦労で、わずか四、五日のうちにめっきり老《ふ》けて見えた。
お熊は近所の湯屋へ行って留守であった。延津弥はきのうから起きたが、髪はまだ櫛巻きにして、顔の色も蒼ざめていた。知合いの仲であるから、お兼はすぐに通されたが、今夜の対面は双方とも余り快くなかった。お兼の方からまず口を切った。
「今度はおたがいさまに、飛んだ迷惑で困りました。そこで早速ですが、せがれの長之助はその後にこちらへ参りましたろうか。」
「いいえ。」と、延津弥は情《すげ》なく答えた。「二十九日から一度も見えませんよ。」
「ほんとうに参りませんか。」
「見えませんよ。千生さんだって、うっかりここの家へ顔出しも出来ないでしょうから。」と、延津弥は皮肉らしく言った。
「そうですか。」と、お兼はさらに声をひくめた。「世間というのは途方もないことを言い触らすもので……。家《うち》の長之助がおまえさんと肚《はら》を合せて、中田屋の旦那を毒害したなんて言う者がありますそうで……。」
「まあ。」と、延津弥は呆れたようにお兼の顔をながめた。
「よもやそんな事があろうとは思いませんけれども。」
「あたりまえですよ。」と、延津弥は蒼ざめた顔をいよいよ蒼くして、罵るように言った。「なんであたしが千生さんと肚を合せて……。お熊に訊いて御覧なさい。こっちが頼みもしないのに、千生さんの方から知恵を貸して、おまえさんの家からおはぎを貰わして……。千生さんにどんな巧みがあったか知りませんけれど、あたしはなんにも知りませんよ。もしあのおはぎに毒がはいっていて、中田屋の旦那は死に、あたしもこんな病気になったのなら、千生さんは人殺しの下手人ですよ……。」
「そりゃそうですが、世間では……。」
「世間がどういうんですよ。」
「今もお話し申した通り、おまえさんと肚をあわせて……。」
「なぜ肚を合せるんですよ。肚を合せて、ど、どうするというんですよ。」
言いかけて、延津弥は何か思い付いたように又罵った。
「まあ、ばかばかしい。
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