辺まで尋ねて行くことになると、その往復だけでも相当の時間を費してしまうので、肝腎の読書の時間が案外に少いことになるには頗《すこぶ》る困った。
なにしろ馴染《なじみ》の浅い家へ行って、悠々と坐り込んで書物を読んでいるのは心苦しいことである。蔵書家といっても、広い家に住んでいるとは限らないから、時には玄関の二畳ぐらいの処に坐って読まされる。時にはまた、立派な座敷へ通されて恐縮することもある。腰弁当で出かけても、碌々《ろくろく》に茶も飲ませてくれない家がある。そうかと思うと、茶や菓子を出して、おまけに鰻飯などを喰わせてくれる家がある。その待遇は千差万別で、冷遇はいささか不平であるが、優待もあまりに気の毒でたびたび出かけるのを遠慮するようにもなる。冷遇も困るが、優待も困る。そこの加減がどうもむずかしいのであった。
そのあいだには、上野の図書館へも通ったが、やはり特別の書物を読もうとすると、蔵書家をたずねる必要が生ずるので、わたしは前にいうような冷遇と優待を受けながら、根よく方々をたずね廻った。ただ読んでいるばかりでは済まない。時には抜き書きをすることもある。万年筆などのない時代であるから、矢立《やたて》と罫紙を持参で出かける。そうした思い出のある抜き書き類も、先年の震災でみな灰となってしまった。
そういう時代に、博文館から日本文学全書、温知叢書、帝国文庫等の飜刻物を出してくれたのは、我々に取って一種の福音であった。勿論、ありふれた物ばかりで、別に珍奇の書は見出されなかったが、それらの書物を自分の座右に備え付けておかれるというだけでも、確に有難いことであった。
その後、古書の飜刻も続々行われ、わたしの懐にも幾分の余裕が出来て、買いたい本はどうにか買えるようにもなったが、その昔の読書の苦しみは身にしみて覚えている。わたしはその経験があるだけに、書物の装幀などにはあまり重きを置かない。なんでも廉く買えて、それを自分の手もとに置くことの出来るのを第一義としている。
前にもいう通り、わたしが矢立と罫紙を持って、風雨を冒して郊外の蔵書家を訪問して、一生懸命に筆写して来た書物が、今日では何々文庫として二十銭か三十銭で容易に手に入れることが出来るのは、読書子に取って実に幸福であるといわなければならない。廉価版が善いの悪いのと贅沢をいうべきではない。
博文館以外にも、その当時に古
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